時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

元気です。(吉田拓郎の世界)

2020年05月03日 | 時のつれづれ・皐月 

多摩爺の「時のつれづれ(皐月の3)」
元気です。(吉田拓郎の世界)

さすがにテレビ電話はしなかったが・・・ 今年のゴールデンウィークは帰省することが出来ず、
年老いた両親には申し訳ないが、
電話での近況報告(孫の成長具合)と安否確認をさせてもらうことにした。

最近、芸能人がYouTubeを使って、医療従事者を励ます歌のリレーをやっている。
とっても良いことだと思うが、一つだけ残念なことがあるとすれば、
私の知ってる、昭和の歌手が見当たらないことだろう。

閑話休題
応援歌つながりで恐縮だが、私の好きな人生の応援歌について、ちょっと語ってみたい。
それは・・・ 昭和40年代の半ばだった。

 人間なんて らららら・・・ 人間なんて ららら・・・

いつものように、ラジオの深夜放送を聞いていたら、
ちょっとばかり、ぶっきらぼうで、投げやりとも感じられるような歌声が聞こえてきた。

何かに怒りがあるんだろうか?
それとも、何かに不満をぶつけたいのだろうか?
その歌声は、やるせなくて行き場を見失った、心の叫びのようにも思われた。
それが・・・ 吉田拓郎という、ちょっと尖がってたフォークシンガーとの出会いだった。

昭和42年から44年にかけて、この国はグループサウンズという4~5人組の男たちが
同じ服を着て、同じステップを踏み、長髪にギターを持って、お茶の間を席巻していた。
アイドル顔負けの扱いを受け、毎晩のように歌謡番組を梯子し、
愛だ、恋だ・・・ と歌う、安っぽいラブソングに、この国中の皆がうなされていた。

ところが・・・ 栄枯盛衰は世の習い、時の移ろいはあまりにも早過ぎる。
麻疹に罹ったようにボルテージが上がったグループサウンズ熱は、
3年を持つことなく、あっという間に終焉を迎えた。

ちょうど、その頃だった。
ラジオの深夜放送を中心に、若者が影響を受けやすい歌が流行りだしていた。

それは・・・ 有名な作詞家や、有名な作曲家が作った流行歌というジャンルじゃなく、
何処にでも居そうな、ニイチャンや、ネエチャンたちが作った詩や曲を、
何処にでも居そうな、ニイチャンや、ネエチャンたちが、
安っぽい服装(いわゆる普段着)で、ギターを弾きながら、ちょっと切なそうな声で歌っていた。

後にシンガーソングライターという言葉で一般化されたが、
この時期に現れたフォークシンガーたちが、その先駆けだったことは言うまでもあるまい。

彼らが歌っていた初期のフォークソングに共通していたものは、
陰りが見えてきた学生運動への挫折感もあったが、
多くは、特に理由もないのに、誰にでも反抗してしまう屈折感だったんじゃなかろうか。

それは・・・ 社会の片隅で暮らす人々の心の声だったかもしれない。
ただひたすらに、経済成長を担う働き手としての役割に、何かしらの不満を覚え、
一方でマスコミを通して耳にし、目にしてきたベトナム戦争や、小笠原と沖縄の返還問題
戦争を経験した親と、戦争を知らない子供たちの心に蓄積する世代間のズレ
個人的な思いで恐縮だが、フォークソングのスタートはそこにあったのではなかろうか。

そんな、ちょっと屈折しかけたハートに垣間見える本音が、
吉田拓郎の「人間なんて」には、たった二行のフレーズに凝縮され、やるせない声で吐露されていた。

 何かがおかしいよ
 それがなんだかわからない。

そう、明快な疑問もなければ、明快な回答もなかった。
あれから半世紀、今になって振り返れば、大人になるまでの通過点で積み重ねて行く、
経験と成長に他ならず・・・ 避けては通れない、かけがいのない時間だったように思う。

ギターを弾きながら、ハーモニカを吹きながら歌うフォークソングに嵌まってしまった。
高熱にうなされるほどではなかったが、流行病(はやりやまい)に罹患したまま、
時は忙しく過ぎて行き、還暦を過ぎて今なお、この病は完治していない。

西日本の田舎町に住んでいても、深夜0時を過ぎ、短い針が下に向き始めると
憑りつかれたかのように、ラジオのスイッチを捻り、
東京から放送されるディスクジョッキーの話術に心を奪われていた。
深夜放送は、若者にとって欠かすことが出来ない情報源であり栄養剤でもあった。

吉田拓郎を知ってから既に半世紀
井上陽水も、かぐや姫も、さだまさしも良いけど・・・ 私は断然、拓郎びいき
特に次の3曲は、私のハートを掴んで離さない。

50年前に魂を揺さぶられた曲は「人間なんて」と「マークⅡ」
 さよならが言えないで どこまでも歩いたね・・・
このフレーズが、妙に心に突き刺さっていた時期もあった。

心の弱さをひた隠し、あえて尖がっていたあの頃、勉強も、部活も、恋愛も、
ホントにホントにギリギリで、泣きが入る寸前だった日々のことを・・・ 思い出す。

50年経った今、心の琴線に触れた曲は・・・ 「元気です」である。
この歌を口ずさむと、脳裏に浮かぶのは当時の故郷の光景や、
年老いた両親のことが思いだされる。
さすがに、涙は出ないが・・・ たまに「うるっ」とくることがあったりして堪らない。

 元気です  作詞・作曲・歌 吉田拓郎
 ※YouTubeで検索してみてください。(すっごく、良い歌です。)

  誰もこっちを むいてはくれません 一年目の春に 立ち尽くす私
   道行く人々は 日々を追いかけ 今日一日でも確かであれと願う
   わずかにのぞいた 雨上がりの空を見て 笑顔を作って「どうですか」と問いかける
   いろんなことがあり 愛さえ見失う
   それでも誰かと触れあえば そうだ「元気ですよ」と答えよう

   風よ運べよ 遠い人へのこの便り 二年目の夏 なみだともらい水
   幸福の色は 陽に灼けた肌の色 唇に浮かんだ言葉は潮の味
   出会いや別れに 慣れてはきたけれど 一人の重さが誰にも伝わらず
   どこかへ旅立てば 振り返りはしない
   それでもこの町に心をしずめたい そうだ「元気ですよ」と答えよう

   夕暮れ時には 思いが駆け巡り 三度目の秋に 何かが揺れている
   時間を止めても 過ぎ行くものたちは 遥かな海原に漂い夢と散る
   かすかに聴こえた やさしさの歌声は 友や家族の手招きほど懐かしく
   木の葉にうずもれて 季節に身をまかす
   それでも私は私であるために そうだ「元気ですよ」と答えよう

   自由でありたい 心のままがいい 四年目の冬に 寒さを拒むまい
   どれだけ歩いたか 考えることよりも 標(しるべ)なき明日に向かって進みたい
   あなたの人生が いくつもの旅を経て 帰る日くれば笑って迎えたい
   私も今また 船出の時です 
   言葉を選んで渡すより そうだ「元気ですよ」と答えよう

様々な経験を積み重ね、人の親になり、孫を持ち、人生の黄昏期に入ったいまになっても、
この歌を聞くたび、今さらながらだが、心に沁み入る応援歌だと・・・ 私の琴線が共鳴する。

新型コロナウイルスのせいで、外出自粛が続く毎日、
唯一の楽しみは人々がまだ出歩かない早朝のウォーキング
年金暮らしの爺さんが、誰が見てるか分からないのに、歩きながら含み笑いで口ずさむ吉田拓郎
そんな、一人悦(ひとりえつ)の世界が堪らない。


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2 コメント

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元気です (りりん)
2023-08-03 20:27:39
こんばんは。
以前「今日までそして明日から」を紹介いただき、この記事も読ませていただきました。
https://blog.goo.ne.jp/tamajii/e/644127fc2e9a86c4f622acd04d469f89

深夜ラジオから聞こえる拓郎の声、そして曲
何もかもが新鮮でわくわくしてた高校時代でした。
時たま、イヤホンをつけたまま眠ってしまい、朝になってた事も。

「元気です」は大人になった今のほうが、琴線により触れる楽曲に感じますね。
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Unknown (多摩爺)
2023-08-03 20:49:27
りりんさん、こんばんは

そうでした、
以前、紹介したことがありましたね。
大変失礼しました。
また、何かの機会に「元気です」を紹介していただければ嬉しく思います。
コメントを催促したみたいで、申し訳ございませんでした。
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