山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

深南部の玄関口――大札山

2024-05-10 14:15:29 | エッセイ

山犬段から望む大札山・秋

 島田から大井川を北上すると、最初に目に付くのは八高山、さらに地名辺りまで行くと左前方に麓からどっしりと立ち上がった大札山が見えてくる。大井川中流域の山では人気が高く、特にアカヤシオやシロヤシオの咲く春や、紅葉の季節には賑わいを見せる。南赤石林道が大札山の肩まで舗装され、駐車場から僅か30分程度で山頂に立てる気軽さも人気の理由だろうが、さて麓から登るとなると標高差は1140メートルとなかなか登り出があり、この山の大きさを実感できる。

 私が最初に麓の藤川から登ったのは2000年10月、中学生になった長男と一緒だった。大札山から山犬段の小屋で一泊し、沢口山まで縦走して寸又峡へ下った。小学生の頃はよく山に付いてきた息子だったが、中学ともなると普段の口数も少なくなり、この時は久し振りの同行だった。駿河徳山駅を9時過ぎに歩き始め山犬段の小屋に着いたのは16時半を回っていた。7時間余の間、二人きりでいったい何の会話を交わしたのか今となっては思い出せないが、子供の頃のものではなく私の山靴を履いて先行する息子の姿を少し嬉しく感じたりした。夕方になると天野夫妻と油井さんが車で上がってきて、賑やかになった。酒も程よく入り、息子も油井さんより〝大人〟の講義など受けながら楽しく過ごしたのだった。

 その前年秋、県スポーツ祭登山大会が山犬段周辺で行われ、SHCも大川連の一員として実行団体に加わった。メインコースとなった房小山は長く〝深南部の秘峰〟などと呼ばれていたようだが、この大会によって多くの人たちが訪れ、その魅力が知られるようになった。私自身もこれに前後して大井川流域の山々、特に山犬段周辺とそこからさらに続く深南部の山々に対して、憧憬を深めていった。私が大井川流域への想いを醸成させた『大井川―その風土と文化―』(野本寛一著)の中の信濃(伊那〜諏訪)への道が、具体的な山歩きの姿として仄かに見え始めた頃だった。

 大札山、山犬段を訪れた人なら、南赤石林道入口の上長尾に島田のそれと同名のもう一つの千葉山智満寺があることはご存知だろう。以前、島田の千葉山において行われた民俗学研究家・八木洋行氏の講演で「南北朝時代、伊那大河原(現大鹿村)に拠点を持った宗良親王を旗頭とする南朝勢力のルート(大札山、蕎麦粒山から榛原郡界尾根を北上し県界の白倉山から伊那へ至る)と関連があるのではないか」という指摘を拝聴した。南朝伝承は特に木地師集団の足跡と深く関係があると言われ、また、中央構造線に沿って伝播されているとも言われる。その視点からこの山域(深南部)の地図を眺めると、大札山、黒法師岳、丸盆山、不動岳、六呂場山と、その匂いを感じさせる山名が並んでいる。木地師をはじめとする山の道を往来する人々の足跡と、私の歩こうとする山々が繋がってくるのだ。大札山を越えて深南部へ、伊那へ、そして諏訪へ。大札山は私の山歩きの玄関口であり、また歴史的想像力の入口でもあった。

(2009年4月)



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