山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

井川への峠越え

2024-07-11 13:17:58 | エッセイ

 井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。
 こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、隔てる山稜の峠を横に越えての交流だった。山伏から南下する大井川・安倍川分水嶺では、梅ヶ島へ抜ける三尺峠(牛首)、孫佐島へ抜ける井川峠、湯の森や奥仙俣に抜ける峠などがあるが、地形的に見ても中河内川へと抜ける大日峠が、一番越え易かったであろうことは想像できる。大日峠を越えた中河内川最上流部の口坂本は、名のとおり井川への入口であり、それ故、旧井川村に属していた。ダム建設以前の井川と静岡との交通には、徒歩での大日峠越え(3時間)、口坂本からのオート三輪(2時間)、上助からのバス(1.5時間)、計6時間半程を要したようだ。物資は持子と呼ばれる運搬人が背負って、もしくは索道を使って大日峠を越えるしかなかった。


昭和30年頃の井川・大日峠

 『修訂駿河国新風土記』によれば

〝大日嶺は此村より登り一里半許、東の方、途中に冷水の湧出る処あり、ここを水呑と云、下の方に大日堂あり、嶺の名これによる、神祖府に御在城の時、此嶺に御茶小屋を建、足久保にて製せし茶を壼に詰、此処に納め置、後に御台所に納めしとぞ、海野弥兵衛・朝倉六兵衛司る処なりと由緒書に見えたり、其跡石垣存す、此峠を西に下れば井川中野村なる刎橋の本に到る、凡下り一里半余……〟

とあり、既に江戸時代より頻繁な往来のある峠であったことが窺える。〈冷水の湧出る処〉には、水呑茶屋があったらしい。
 大日峠を越えたのは、井川の人々や生活物資だけではない。南アルプス登山のためには、この峠を越えて井川へ入らなければならなかった。冠松次郎の『大井川の冬』によれば、静岡駅の到着が早朝の4時42分、7時50分の安倍鉄道の始発に乗り、牛妻からは自動車で唯間へ。それから5貫目位のルックを背負って、気ままに歩き出した……とある。

〝口坂本で峠へ行く人に荷を托し、写真機だけ持って峠道を登って行った。長堤のような大日峠につづく山々を見ながら、途中の掛茶屋でウドンを一杯食べて空腹を癒し、それからやや急な坂道を登って行くと間もなく水呑茶屋についた〟

 北アルプスで言うならば上高地への入口としてのかつての徳本峠越えと全く同様の意味が、井川・大日峠にはあったのである。今日、由緒正しき峠を歩いて越すのも一興だろう。

*参考:金子昌彦・廣澤和嘉著『登山誌:静岡市を含む南アルプスの山々』

(2014年10月記)

現在の大日古道の様子は下記「大日古道と井川村」参照

『大日古道と井川村(2022,10,17~18)前編』

『大日古道と井川村(2022,10,17~18)前編』

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