山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

2024-06-19 14:28:10 | 日記

前記事の参考資料です。

旧下田街道

■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)

 豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。
 名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。
 仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが橋を架けたり、岩石を砕かなければならない箇所が多い難工事で、莫大な費用が見込まれた。
 仙蔵は近在の村々の名主にも訴え、応分の資金を援助してもらったが、それだけでは足りない。この道を利用した近郷の村々が援助したことも記されている。仙蔵は私財を投じ、自らもくわやもっこを担いで工事の先頭に立った。梨本村および近村の人々も手弁当で参加した。難工事だった二本杉峠の新道が開通したのは、1819(文政2)年である。以後、この道は伊豆の南北を幹線下田街道として多くの旅人が往来し、大いに助かった。
 安政年間(1854~59年)下田で黒船騒ぎが起こった時代には、江川坦庵、吉田松陰、ハリスらが1857(安政4)年10月8日、慈眼院を出発し、通訳のヒュースケン青年を含め350人の行列を組んで峠を越えた。
 1905(明治38)年、天城トンネル経由の新道が開通したが、歩いて天城峠を越えた86年間、現在は「天城の旧道」と呼ばれている「二本杉歩道」は活躍した。梨本の住民であった仙蔵の功績は図り知れない。
 仙蔵の生家は、川合野のほぼ中央部にあり、豆州梨本宿の本陣を務めた大家「稲葉家」と隣接していた。代々名主を務める素封家であった。途中養子を迎えたが財産を売り払い絶家した。1884(同17)年、生家も売り払った。
 仙蔵は1835(天保6)年8月26日没す。墓は梨本の慈眼院にあり、墓のみが物語を残している。戒名は「道嵪峻作居士」。当時の住職が仙蔵の偉業をそのまま諡号[しごう]にしたものだ。道嵪とは山中の険しい道、峻は山の高峻なことで、その仕事の出来栄えや功績の高く優れたことをも知らしめたものであろう。まことにふさわしい立派なものである。
 仙蔵の妻「とき」は後妻のようで、韮山反射炉の工事日誌にしばしば名が出て来る板垣助四郎の娘である。仙蔵とはひどく離れた妻であったようである。87歳で没。
 筆者が居住している家は、建ててから200年以上たっている「にいえ」の本宅である。仙蔵、助四郎、鉄砲(筆者の屋号)と、何か因縁めいたものを感ずる。

(河津町・稲葉修三郎/「伊豆新聞」2014年6月23日)

二本杉歩道概念図

■天城峠の変遷

 伊豆は長い間、天城連山によって南北に分断されていました。天城越えの陸路の建設は、時代毎の命題でありましたが、道路づくりは急峻な地形にはねのけられ、困難を極めました。このため、道は切り立った崖の上、岩を刻んだ階段等にもつくられ、天城越えで尊い命を捨てた人も少なくありません。一方、「天城」という地名は「雨」に由来しているとも言われています。地形的に雨量が多く、自然災害を受けやすい天城山岳地域の街道は、峠の場所そのものにとっても、変遷を重ねざるを得ない状況だったと言えます。

  • 新山峠:室町期以前の峠です
  • 古 峠:室町期から寛政時代にかけての峠です。
  • 中間業 (ちゅうけんぎょう):寛政時代から文政2年にかけての峠です。
  • 二本杉峠:文政2年(1820)以後の峠です。幕末、下田にアメリカ領事館がおかれていたころは、江戸の幕府と領事館を結び、外交使節団が往来しました。まさに「日本開国の道」です。しかし、下田から三島へ通じていたとは言うものの、途中の天城路は難所中の難所でした。このほか、江戸後期の天城越えに登場する人物は、老中松平定信、タウンゼントハリス、吉田松陰、唐人お吉など、この峠をよく利用したと言われています。
  • 天城峠(旧トンネル):峠、トンネルとも数多くの文学作品の舞台となっています。ノーベル賞を受賞した川端康成の代表作「伊豆の踊子」は、天城峠が始まりです。この名作にあこがれて、この地を訪れる人々もたえません。明治38年に開通した天城トンネルは当時のまま、実に周辺の四季の彩りにマッチする天城のシンボルです。

(『天城湯ヶ島郷土研究』より)



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