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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「西町・本町・山田町」

2019-10-30 11:11:30 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西町・本町・山田町」   宍粟市山崎町山崎

                 閲覧数2,959件(2009.12.8~2019.10.30)

◇◇ 山崎 ◇◇

明治22年に山崎町(10村)と他の10村が合併して、山崎町になりました。

 山崎町10村とは明治4年頃、西新町・本町・山田町・福原町・富士野町・出水町・伊沢町・紺屋町・寺町・北魚町のことで、現在、これらの村は、今の自治会となり、この10の自治会のうち、寺町を除く9自治会は、住所で表すと宍粟市山崎町山崎○○番地となる。自治会名は住所には現れない。


■西新町(西町)

【近世】もとは佐用町(さよまち)という。通称西町。藩邸の外堀の北側に位置する。中央南方の外堀付近に土橋御門があって藩邸・家中屋敷に通じていた。江戸中期頃から酒造業者の居住がみられた。(山崎町史)
 地名由来は、城下町の中心本町の西方に位置したことによる。佐用町(さよまち)と呼ばれたのは、寛永8年(1631)以降で、池田輝澄が佐用領2万5千石を加えられ、新町が形成され、この地に元佐用藩の家臣の一部がここに居をなしたので、そう呼ばれるようになったようである。

■本町

【近世】藩邸・家中屋敷と町場を区分する外堀北側に位置する。中門・熊鷹(角鷹)御門があり、門番が置かれた。中央に会所屋敷があった。
 寺院は、浄土真宗本願寺派光泉寺。
 地名由来は、城下町特有の名称で、城下町の中心地であるところから。

■山田町

【近世】篠の丸山の南麓に形成された段丘面の南東部に位置する。天正年間龍野城主木下勝俊が公布した新町申付状により段丘面西方の山崎村と東方の山田村はともに新町を形成(播州宍粟郡誌)。さらに元和元年(1615)の山崎藩成立と陣屋の設置によって城下町として、整備された。当町は陣屋の北東の熊鷹(角鷹)門付近から外堀にそって東へ伸び、段丘面東端付近に設けられた清水口御門まで続く町場であった。
 神社は、崇(総)道神社。同社は京伏見の、崇道神社から勧請と伝える。同社は、「おそどさん」とも呼ばれて人々に親しまれる。境内には奥筋への道を示す寛政11年(1799)銘の道標が残る。
 寺院は、元和4年(1618)開基の日蓮宗青蓮寺。同寺は藩主池田輝澄の母花光院が、彼女の母親蓮葉院(徳川家康の妻)の菩提を弔うために姫路城の東方(野里)に建立した寺を当町に移したものである。(播州宍粟郡誌)また同寺が建てられた場所は、町場の東部を固めるという軍事的意味もあった。
 地名の由来は、篠の丸(山)の南麓の段丘東部を開墾してできた田からであろう。






◇今回の発見
 山崎藩成立後、陣屋とともに整備されていった城下町。外堀の北側で発展していく。軍事的な意味をもつ寺の配置や見通しを許さないカギ型路といった城下町特有の町づくりがこの時から始まったということ。

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