郷土の歴史と古城巡り

播磨 姫路城をゆく その1

(2015.3.27~2019.10.27)


 姫路城グランドオープン(2015.3.27)の1週間後4月2日(木)雲ひとつない快晴。桜が一斉に開花し、純白の城に彩りを添えた。まずは天守行きの整理券をもらい、入城券を買ってじっくり城を探索と思いきや、天守にたどりつくのに1時間半を要した。しかしそれはほとんど苦にはならず、天下の名城を満喫する至福の時間を得ることができた。





 ▲パノラマ
 













 


 いまや国宝でもあり、世界文化遺産ともなった姫路城。この城が残された背景には数々の奇跡と人知があった。



姫路城のこと 兵庫県姫路市本町

 姫山に室町期の赤松則村(円心)の次男貞範が砦を築いたのが始まりといわれ、赤松氏の宿老小寺氏が守ってきた。戦国時代の永正16年(1519)小寺政隆が新たに御着城を築き、姫山の城は御着城の出城として息子則職が守り、さらに天文14年(1545)になり家老黒田重隆が入り、職隆、孝高(官兵衛)と城主を引き継いだといわれている。
 
   定説となっている城主だが、最近の研究では一次資料となる文献に姫路の城(構)が始めて出てくるのが永禄4年(1561)で黒田重隆・職隆父子が御着城の出城として築いたのが最初の姫路城ではないかと考えられている。
 
 


▲畠地売券『正明寺文書』



 


 羽柴秀吉が播磨を平定したあと、黒田官兵衛は秀吉に山陽道と飾磨津(港)の陸海の便に恵まれた姫路城を本拠にすることをすすめ譲り渡した。
 
 

▼秀吉時代の天守台の石組みと礎石 昭和30年代の姫路城の解体修理時発見



 秀吉は天正8年(1580)新しく築城にとりかかり三層四階の天守を築いた。池田輝政の築いた石垣の中には秀吉時代のものが本丸を中心に、備前丸・帯の櫓から二の丸あたりまで残り、秀吉の築いた城はかなり広いことがわかった。秀吉は、滅ぼした英賀の町民を姫路に移住させ、楽市を開くなど新しい町づくりを推し進めた。
 
 秀吉死後、慶長5年(1600)天下分け目の関が原の戦いに勝利した徳川家康は徳川方で活躍した池田輝政に播磨52万石の太守に任じた。姫路に入った輝政は家康の力添いも得て、翌年の慶長6年(1601)から城造りにとりかかった。姫山といいう小さな丘に渦状に郭を配置し、内堀・中堀そして町屋も取り囲んだ外堀をもつ惣構えの縄張りをしいた。外堀の総延長は実に11.5kmもの大工事に8年の歳月を費やした。五層七階の天守と小天守の連郭式城郭は、当時の城郭技術を結集した実戦対応と造形美を兼ね備えたものであった。

 輝政は慶長18年(1613年)に姫路にて急死し、長男の利隆が姫路城主になるが享年33歳でなくなり、長男の光政が跡を継ぐものの七歳で鳥取に移された。当時姫路城主の役割は、西国大名の監視の役目もあり、その業務をこなせる人物が必要であったため異動が頻繁であったという。

 元和3年(1617)本多忠政が入封し三の丸の高台に居館を造り、千姫(将軍徳川秀忠の娘、家康の孫)と長男忠刻の夫婦二人のために鷺山に西の丸、化粧櫓を築いた。
 
 

▼天守から見た西の丸

 


▼千姫の再現 千姫はここで十年を過ごす

 


 本多氏以後は家門や譜代大名が城主となった。幕末期の慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは城主の酒井忠淳は老中として旧幕府軍に属し、敗戦後徳川慶喜に従って江戸に逃れていたため、城主不在の姫路城は備前藩の攻撃を受けたが戦わず開城し戦火は免れた。
 
 廃藩後、飾磨県県庁が城内に置かれ、そのあと陸軍歩兵第10聯隊が駐屯。兵営建設のため三の丸の門・櫓・武蔵野御殿、向屋敷などが取り壊されている。
 
 

 ▼陸軍歩兵第10聯隊(明治初年古写真)


参考:角川日本地名大辞典、姫路 城物語(姫路市教委)他
 

 
~お堀と石垣~
 


 







船頭の軽快な櫓さばきで和船がゆうゆうと進む
 



 

雑 感
 
  姫路城には当時最高の建築技術によって建てられた天守閣とともに、それを守るための重要な防御策として敵の侵入を防ぐ様々なトリックや仕掛けが設けられた。この難攻不落の城造りにとりかかった人物は池田輝政だが、家康に見込まれ播磨の太守となり、家康に評価を得られる築城に取り組んだようだ。城と町割り、治水には膨大な資金調達が必要だが、その多くを農民や商人に様々な税の形で負担をしいている。

 以後城を受け継いだ大名たちは、天守や多くの城郭群の雨漏りや柱の腐食等々による修理に悩まされたという。

 時代は明治になり、明治政府の廃城令で多くの城が取り壊される中、寸でのところで破却を免れ、太平洋戦争末期の二度にわたる姫路空襲を免れ、昭和・平成の大修理で長期の修理期間と多額の資金を要したが城は守られた。



 古写真 1945.7.4-5の空爆後の写真




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