東日本大震災から1年が経ちました。
タケダは大崎市合同庁舎の追悼式典に参加し、黙祷をしました。
今日一日「いのち」について何度も考えては涙ぐんでました。
黙祷の時も思わず涙が出てしまったくらいです。
思えばこの一年、人生の中で一番「涙」を流した年だったと思います。
現在、ほぼ震災前と変わらない生活に戻る事が出来ています。
生徒や友人・知人を震災で失い、ネガティブになったこともありました。
でもそんなことではだめだ・・・と音楽やその他様々な活動を
元気いっぱい行っている報告をさせて頂いてます!
このブログを1日に沢山の人が読んで下さっていますが
心遣い、励ましの言葉・・・本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
東京に行って報道番組やニュースを見ても
内陸部の事について触れる事が少ないように思います。
タケダの住む栗原市は震度7。今まで6強は宮城に来てから3回ほど体験しています。
宮城・岩手内陸地震の際はかなりの被害があったものの
通常の生活に戻るにはあまり時間がかかりませんでした。
(栗原耕英地区は未だ大変な思いをされている方がいます)
しかし今回の大震災は全く違うものでした。
震災当日の記憶は鮮明に覚えていますが、すぐにブログに書こうと思いませんでした。
1年経って通常の生活を取り戻すことが出来たら書こうと思っていたからです。
忘れる事がないように、また内陸も被害が大きかったことなどを
ここに書いておこうと思います。
タケダは大崎市のスタジオで被災しました。
レッスン開始から1分後の事。スタッフと生徒がいたのですが
尋常じゃない大きく、そして長い揺れに声も出せないくらいの恐怖を感じました。
事務所の楽譜やCD、テレビやデッキは雪崩のように落ち
食器も割れ破片が散乱。地震でこんなにもめちゃめちゃになるなんて・・・片付けが大変でした。
レッスン室のグランドピアノは30㎝以上移動しました。
そして、スタジオ前の家は大きな音と共に全壊、隣の家もほぼ全壊・・・
幸いスタジオは無事だったので近所にお住まいの方達の避難所として
寝泊り出来るように開放することとしました。
度重なる余震の中、しばらくすると近所の方が「先生の車が大変なことになってる!!」と教えて下さり
駐車場に行ってみると、隣の家のベランダが乗っかっていました。
切れた高圧電線がかかっていたので近づくこともできず
自宅に帰る事は出来なくなってしまいました。
子供達の事、家族の事、友人の事など冷静さを取り戻すにつれ次々と心配な気持ちが湧いてきましたが
すぐには動くこともできず・・・家族が迎えに来て自宅に帰れたのは夜中12時過ぎでした。
ちなみに、隣の家が原因でもこうなったら修理は自腹です(涙)
震災直後から停電・断水。電話やネット回線も繋がらず。
心と余震が少し落ち着いてからと、スタッフ・生徒(大人の方)を18時くらいに帰しました。
夕方になって近所の方がラジオを持ってきてくれてようやく被害の状況を知ることとなります。
「津波?」そんな情報を知ったのは夕方でした。
うちのスタッフは石巻の渡波。
彼女には「途中、地割れなどで帰れなくなったら戻ってきてね」と言いましたが
まさか、石巻が津波で大変な被害になっているなんて・・・
彼女を帰してしまったことを強く後悔しました。
後日、携帯が繋がるようになって家族も本人も無事との連絡が入った時は心から安堵しました。
震災当日、唯一携帯が繋がった人がいます。
人生で見た事のない満天の星空の中、
「関東も大変だったけど大丈夫!」とか「また会えるよね?」など
冗談交じりでいつもと変わらない会話が出来たのはすごく励みになったし奇跡でした。
電話を切った後、もしかしてと思い災害伝言ダイヤルにかけてみたら繋がり、
無事である事のメッセージを残すことが出来ました。
友人は災害伝言ダイヤルで私の安否を確認してくれた人が数人いたのをあとから知りました。
夜はラジオを一晩中流していたのですが放送されている内容がすさまじい物で
耳を疑う投稿ばかり・・・怖くて眠れるわけがありません。
「○○でそこまで水が来ています。助けて下さい」とか「子供が死にそうです」など
ツイッタ―やメールでリアルタイムにラジオ局に入る情報を東北放送のアナウンサーが
電波が停電の影響で途切れてしまうまでずっとしゃべり続けていましたが今思うとすごい事です。
長時間しゃべりすぎてだんだん声がかれていくのですが、それでも情報を伝え続けていました。
テレビで被害状況を見る事が出来たのは(ワンセグの存在を忘れてました)3日後くらいでした。
その後停電・断水(これは約1ヵ月)が続きましたが
約1週間後にようやく携帯が繋がりこのブログに書き込むことが出来ました。
震災から14日後にライブを頼まれ、再び歌える事の喜びを噛みしめました。
こんな時に歌っている場合じゃないと思いつつお店へ。
震災直後だというのに1人暮らしで不安だとういう方、出張で来ていて帰れなくなった方
災害支援で来ていた方などがお店に沢山集まっていました。
あるお客様が「こんな時なのに、生演奏が聴けるなんて幸せだ・・・」と言って下さったのを
今でも強く覚えています。
その後ライフラインも復旧し、4月4日からレッスンを再開。
ただガソリンが無く、自転車(片道2時間)で通勤しましたが
地割れがひどく、建物も全壊・半壊が多い。また余震も続いていたため
かなり危ない状況でした。
大崎市の震災直後の被害状況が掲載されています。
http://www.city.osaki.miyagi.jp/annai/koho/2011/201104_61.html
「楽器や文具の支援活動」についてを日記に書き、沢山の方が協力下さったことも感謝です。
http://blog.goo.ne.jp/takeda-music/e/93f0bc34258ff3197db898cece908743
この活動を通して、出会う事がなかった沢山の方と繋がりを持つことが出来ました。
しばらく会っていなかった学友や沖縄に住む友人・音楽仲間から広がった友人の皆さん・・・
ちゃんと子供達や被災された方々に届ける事が出来ました。
その後ブログに書き記した通り、少しずつ通常の生活に戻る事が出来ました。
1日も早く、心も体も生活も元に戻りますように。
音楽・文化で少しずつですが復興の力にるようこれからも頑張ります!
良く友人・知人に聞かれるのが「役に立った震災への備え」
近々この事について書こうと思います。
タケダは大崎市合同庁舎の追悼式典に参加し、黙祷をしました。
今日一日「いのち」について何度も考えては涙ぐんでました。
黙祷の時も思わず涙が出てしまったくらいです。
思えばこの一年、人生の中で一番「涙」を流した年だったと思います。
現在、ほぼ震災前と変わらない生活に戻る事が出来ています。
生徒や友人・知人を震災で失い、ネガティブになったこともありました。
でもそんなことではだめだ・・・と音楽やその他様々な活動を
元気いっぱい行っている報告をさせて頂いてます!
このブログを1日に沢山の人が読んで下さっていますが
心遣い、励ましの言葉・・・本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
東京に行って報道番組やニュースを見ても
内陸部の事について触れる事が少ないように思います。
タケダの住む栗原市は震度7。今まで6強は宮城に来てから3回ほど体験しています。
宮城・岩手内陸地震の際はかなりの被害があったものの
通常の生活に戻るにはあまり時間がかかりませんでした。
(栗原耕英地区は未だ大変な思いをされている方がいます)
しかし今回の大震災は全く違うものでした。
震災当日の記憶は鮮明に覚えていますが、すぐにブログに書こうと思いませんでした。
1年経って通常の生活を取り戻すことが出来たら書こうと思っていたからです。
忘れる事がないように、また内陸も被害が大きかったことなどを
ここに書いておこうと思います。
タケダは大崎市のスタジオで被災しました。
レッスン開始から1分後の事。スタッフと生徒がいたのですが
尋常じゃない大きく、そして長い揺れに声も出せないくらいの恐怖を感じました。
事務所の楽譜やCD、テレビやデッキは雪崩のように落ち
食器も割れ破片が散乱。地震でこんなにもめちゃめちゃになるなんて・・・片付けが大変でした。
レッスン室のグランドピアノは30㎝以上移動しました。
そして、スタジオ前の家は大きな音と共に全壊、隣の家もほぼ全壊・・・
幸いスタジオは無事だったので近所にお住まいの方達の避難所として
寝泊り出来るように開放することとしました。
度重なる余震の中、しばらくすると近所の方が「先生の車が大変なことになってる!!」と教えて下さり
駐車場に行ってみると、隣の家のベランダが乗っかっていました。
切れた高圧電線がかかっていたので近づくこともできず
自宅に帰る事は出来なくなってしまいました。
子供達の事、家族の事、友人の事など冷静さを取り戻すにつれ次々と心配な気持ちが湧いてきましたが
すぐには動くこともできず・・・家族が迎えに来て自宅に帰れたのは夜中12時過ぎでした。
ちなみに、隣の家が原因でもこうなったら修理は自腹です(涙)
震災直後から停電・断水。電話やネット回線も繋がらず。
心と余震が少し落ち着いてからと、スタッフ・生徒(大人の方)を18時くらいに帰しました。
夕方になって近所の方がラジオを持ってきてくれてようやく被害の状況を知ることとなります。
「津波?」そんな情報を知ったのは夕方でした。
うちのスタッフは石巻の渡波。
彼女には「途中、地割れなどで帰れなくなったら戻ってきてね」と言いましたが
まさか、石巻が津波で大変な被害になっているなんて・・・
彼女を帰してしまったことを強く後悔しました。
後日、携帯が繋がるようになって家族も本人も無事との連絡が入った時は心から安堵しました。
震災当日、唯一携帯が繋がった人がいます。
人生で見た事のない満天の星空の中、
「関東も大変だったけど大丈夫!」とか「また会えるよね?」など
冗談交じりでいつもと変わらない会話が出来たのはすごく励みになったし奇跡でした。
電話を切った後、もしかしてと思い災害伝言ダイヤルにかけてみたら繋がり、
無事である事のメッセージを残すことが出来ました。
友人は災害伝言ダイヤルで私の安否を確認してくれた人が数人いたのをあとから知りました。
夜はラジオを一晩中流していたのですが放送されている内容がすさまじい物で
耳を疑う投稿ばかり・・・怖くて眠れるわけがありません。
「○○でそこまで水が来ています。助けて下さい」とか「子供が死にそうです」など
ツイッタ―やメールでリアルタイムにラジオ局に入る情報を東北放送のアナウンサーが
電波が停電の影響で途切れてしまうまでずっとしゃべり続けていましたが今思うとすごい事です。
長時間しゃべりすぎてだんだん声がかれていくのですが、それでも情報を伝え続けていました。
テレビで被害状況を見る事が出来たのは(ワンセグの存在を忘れてました)3日後くらいでした。
その後停電・断水(これは約1ヵ月)が続きましたが
約1週間後にようやく携帯が繋がりこのブログに書き込むことが出来ました。
震災から14日後にライブを頼まれ、再び歌える事の喜びを噛みしめました。
こんな時に歌っている場合じゃないと思いつつお店へ。
震災直後だというのに1人暮らしで不安だとういう方、出張で来ていて帰れなくなった方
災害支援で来ていた方などがお店に沢山集まっていました。
あるお客様が「こんな時なのに、生演奏が聴けるなんて幸せだ・・・」と言って下さったのを
今でも強く覚えています。
その後ライフラインも復旧し、4月4日からレッスンを再開。
ただガソリンが無く、自転車(片道2時間)で通勤しましたが
地割れがひどく、建物も全壊・半壊が多い。また余震も続いていたため
かなり危ない状況でした。
大崎市の震災直後の被害状況が掲載されています。
http://www.city.osaki.miyagi.jp/annai/koho/2011/201104_61.html
「楽器や文具の支援活動」についてを日記に書き、沢山の方が協力下さったことも感謝です。
http://blog.goo.ne.jp/takeda-music/e/93f0bc34258ff3197db898cece908743
この活動を通して、出会う事がなかった沢山の方と繋がりを持つことが出来ました。
しばらく会っていなかった学友や沖縄に住む友人・音楽仲間から広がった友人の皆さん・・・
ちゃんと子供達や被災された方々に届ける事が出来ました。
その後ブログに書き記した通り、少しずつ通常の生活に戻る事が出来ました。
1日も早く、心も体も生活も元に戻りますように。
音楽・文化で少しずつですが復興の力にるようこれからも頑張ります!
良く友人・知人に聞かれるのが「役に立った震災への備え」
近々この事について書こうと思います。
車の写真にはびっくり!
そして、自腹に二度びっくり。
娘から聞いていました。
もしかすると、あの日、仙台空港にいたかもしれなかった・・・と。
今、ここにある命の意味と背負っている使命。
生かされているんですね。
明日から、また新しい一年。
前に進みましょう。3・11を忘れずに・・。
「音楽の力」、広く、深く、強く・・・多くの人達に届きますように。
自分たちは、エイサーの練習にメンバーが集まり“あの時間”を迎えました。
携帯ワンセグで東京の追悼式を見ながら黙祷…
まだ1年なのか、もう1年なのか、それぞれに思いを巡らせた時間でした。
メンバーでこうしてエイサーを続けられる幸せをつくづく感じています…
幸い、現在落ち着いています。新しい事を始めるにはかなりのパワーが必要ですが、新たな出会いや発見も多く「生きる力」になりますね♪今年のお盆は沢山踊りたいと思ってます!
音楽やエイサーの活動は私のビタミン剤です♪
見る人すべてが元気になるような演舞と宮城県を代表するようなチームめざして頑張りましょう~。
また私にできることがあったら、声かけてくださいね
また遊びに行きます。
かながうたとあーちゃんに会えて喜んでました
あっという間の一年だったね…夏は色んな想いを抱えていたんだろうな~と思いつつも何も出来ず。
役立たずな弟子ですまん(--;)
でも震災後初ランチ一緒に行けて嬉しかったわ
ジョイ練再開も涙だったな~としみじみ思い返してました。
震災を通して色んなことを考えたけど 夏が持つ音楽の力のお手伝いが出来たらいいな~と思います。
がんばっぺしね~
JOY練習で歌った「My Life Is In Your Hands」みんなで歌える喜びをかみしめて泣きながら歌ったのは今でも忘れません。
みんながいるから私は元気になれました♪
これからもどうぞよろしく!