チャオプラヤ河岸の25時

ビジネスマンの日記帳

今は亡き香港に

2021-09-26 21:40:12 | インポート

 1991年に初めて香港に入った。早いもので30年が経つ。当時の香港空港は市街地のど真ん中、飛行機を降りると直ぐに八角やニンニクの匂いがした。海外の街はどこも固有の匂いがある。無味無臭は逆に日本の特徴なのかもしれない。

 当時香港はまだ英国領だったが1997年に中国への一括返還を控えていた。街は混沌として自由、何より活気に溢れていた。九龍、コーズウエイ、モンコック、湾仔、セントラル、何処も外国人が沢山歩き、様々な言語が氾濫していた。その国際金融都市の自由を50年間は維持すると約束した1国2制度、だが中国共産党は半分にも満たない年数でその約束を完全に反故にした。

 今、香港を昔日の姿で思い描いても仕方がない。街中に張り巡らせた監視カメラの顔認証システムによって、誰の行動も追跡が可能になっている。政治的発言の自由は無論ない。中国共産党が施行した国家安全法、ほとんどジョージ・オーウェルの描いたデストピアの管理社会を具体化するものになる。管理と監視、密告社会によって民主化の動きは根絶やしにできる。反政府もクーデターも芽の内に摘む。そんな香港の北朝鮮化こそが共産主義の理想の社会と思っているらしい。

 香港から本土の深セン、東莞、佛山に向かった。まだ経済特区は出来たばかり、香港との間には当然国境があり、税関もあった。中国側の職員にパスポートを出せば押印し、不愛想に投げ返してくる。道路はまだ未舗装の箇所も多く、マンホールのような鉄製品は夜中には盗まれてしまう。夜は裸電球の世界が本土、香港との経済力の差は比較にもならないほどだった。

 あの文明、文化の落差を今表現する術はない。どうしたらこの差が埋められるのだろうか、1国2制度は50年などという短時間で大丈夫なのか?闇の続く佛山から南海への悪路をワーゲンに乗り、走りながら思った。香港フィルハーモニーの高いレベルの音楽、金融街に流れ込む最新のファッションとドル。その隣には武装公安が土埃の悪路の脇で自動小銃を構え、人の流れを見張っている世界があった。

 香港にはアヘン戦争、辛亥革命、イギリス植民地、日本占領と歴史が刻まれ、中国にとっては特別な意味を持った地域だ。主権の回復に半端でない熱量を注ぐのは無理もなかった。だが、今の香港人にとっては歴史が意味するところより、結果手にした自由や繁栄の維持が更に大事だったことは云うまでもない。混沌、活気、啓徳空港の匂い、猥雑な夜の街、親父のだみ声、黒社会、金融の国際センター、何でもありの九龍、、そんな香港が消えた。

 名残の香港を探すのは、もう止めよう。共産主義と云う名の最後の大衆宗教、権力への階段の為には手段を選ばない組織、それを甘く見ない方が良い。醜悪な個々の権力欲と従属欲求を人民なる言葉で自身の心まで欺瞞した悪の体系。自由からの逃走の無様、人民の為の国家を未だに作れた実績は一度もない暴力肯定のイデオロギー。結果人々は俯き、香港にかつての活力は無い。

 再度繁栄の時が来るのかは分からないが、きっとその可能性は随分と低い。そもそも自由主義市場の上部構造が共産党などと云う馬鹿げた根本矛盾、きっとマルクス自身が笑いこけることだろう。つまり、必然なのは香港の衰退でしかない。先週、香港の主要な民主団体が解散した。大好きだった香港、、心を込めて、さようなら。

 

 

                           

                              川口

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