8月6日が節分で土用が明け、今日7日は立秋
そして何故か、立秋とともに本格的な夏の到来
待ちに待った夏の日差しに、早速梅干しを干すことに
梅干し作りの仕上げの“土用干し”です
よく「三日三晩の土用干し」といわれますが、土用に入ってから晴天の続く日を選んで、1粒ずつ干します
こうして、天日と夜露にさらすことによって美味しい梅干しが出来上がるわけですが、
最近は突然の雨が心配で、夜は家の中に取り込んでしまいます
ところで、これまでホーローの樽で梅干しを作っていましたが、今回、漬けている途中で樽に穴が・・・
急遽プラスチックの樽に代えましたが、梅酢がかなり漏れてしまい、このような状況に
それでも何とか漬け上がったようです
柔らかいので、一つ一つ破けないように干していきます
今年は4kg
残念ながら、色は・・・
ウメ酢が少なかったためでしょうか
干して2時間ほど
ザルに張り付かないよう1個1個裏返していきます
こうして3日ほど干せば出来上がりです
一緒に干したシソの葉とウメ酢は貴重ですので、別途保存します
平野正章著「味ごよみ」(文芸春秋発行)の「梅干しのうた」の貢より
『中国のウメが日本に入ったのは、持統天皇の御代(六八七~六九五年)というのが、史家の一般的な見方である。
この頃のウメというのは、烏梅(うばい)と称する薬用の果実で、観賞用のものではなかった。
当初は実を燻製にしたいわゆる烏梅(ふすべうめ)や、ウメ酢を採ることばかりで、もっぱら実の実用性が
重んじられ、花を観賞する目的でウメを植えるようになったのは、奈良時代以降のことである。
ところで、ウメの実の利用法とはどんなことなのか・・・現在でも、食あたりやカゼを引いて食欲のないとき、
おかゆに梅干しを添えてたべるが、むかしの人は烏梅を、解熱、発汗、健胃、下痢止めなどに用いた。
また、生ウメから採ったウメ酢を調味料や染料、金工などに使っていた。
今日ほど文化の発達していなかった古代日本において、ウメは単にたべものというより、それ以上の、
価値ある必需品であった。
一説によれば、梅干しはウメ酢を採ったあとの廃物――実を利用したのが、そもそもの発端だといわれる。
ウメ酢は金工には欠かせぬもので、中国からメッキの技術が伝わると、金工たちはみずからの手でウメ酢をつくり、
大正ごろまで、カザリ職人はウメ酢を使って、仏具や神輿の金具を金箔でメッキしていたという。
強い酸を必要とするとき、ウメ酢はなくてはならぬものであった。
(中略)
(梅干しは)食品というよりは、薬品というふうに考えられていた。
梅干しが食品として発展するのは、江戸時代に入ってからのことである。
戦国時代には、梅干しはやはり薬用として重んじられ、唾液を催させる「息合(いきあい)の薬」として用いられた。
合戦などの際、息を調えるのに用いたもので、米の粉と氷砂糖の粉末と梅干しの肉で練った薬である。
(中略)
梅干しが兵食としての地位を確保するのは、ようやく幕末に近くなってからである。』
そして、梅干しの効用について、
『梅干しはクエン酸を多量にふくみ、強い殺菌力を持ち、胃の中で強力な酸性反応を起こして病菌を退治する。
また、血液の成分の中に乳酸の量が増えると、筋肉のタンパクと結合して乳酸タンパクとなって固まり、
からだの筋肉がこわばったり、肩がこったりするが、梅干しは乳酸のできるのを防ぐので、疲れをいやし、
活力を回復するのに役立つ。
(中略)
頭痛や歯痛のとき、コメカミやホホに梅肉を貼るのは、今でもよく見かけるが、これはまじないではなく、
梅干しに熱を吸収する力があって、それが痛みをやわらげてくれるからだ。
食あたりの多い夏場など、梅干しを毎朝食べていると、予防に役立ち、ことに旅に出て、水あたりしやすい人は、
朝のお茶請けに梅干しを召上がられたらよい。
「梅はその日の難のがれ」と、ことわざにもいい・・・(以下略)』
そして何故か、立秋とともに本格的な夏の到来
待ちに待った夏の日差しに、早速梅干しを干すことに
梅干し作りの仕上げの“土用干し”です
よく「三日三晩の土用干し」といわれますが、土用に入ってから晴天の続く日を選んで、1粒ずつ干します
こうして、天日と夜露にさらすことによって美味しい梅干しが出来上がるわけですが、
最近は突然の雨が心配で、夜は家の中に取り込んでしまいます
ところで、これまでホーローの樽で梅干しを作っていましたが、今回、漬けている途中で樽に穴が・・・
急遽プラスチックの樽に代えましたが、梅酢がかなり漏れてしまい、このような状況に
それでも何とか漬け上がったようです
柔らかいので、一つ一つ破けないように干していきます
今年は4kg
残念ながら、色は・・・
ウメ酢が少なかったためでしょうか
干して2時間ほど
ザルに張り付かないよう1個1個裏返していきます
こうして3日ほど干せば出来上がりです
一緒に干したシソの葉とウメ酢は貴重ですので、別途保存します
平野正章著「味ごよみ」(文芸春秋発行)の「梅干しのうた」の貢より
『中国のウメが日本に入ったのは、持統天皇の御代(六八七~六九五年)というのが、史家の一般的な見方である。
この頃のウメというのは、烏梅(うばい)と称する薬用の果実で、観賞用のものではなかった。
当初は実を燻製にしたいわゆる烏梅(ふすべうめ)や、ウメ酢を採ることばかりで、もっぱら実の実用性が
重んじられ、花を観賞する目的でウメを植えるようになったのは、奈良時代以降のことである。
ところで、ウメの実の利用法とはどんなことなのか・・・現在でも、食あたりやカゼを引いて食欲のないとき、
おかゆに梅干しを添えてたべるが、むかしの人は烏梅を、解熱、発汗、健胃、下痢止めなどに用いた。
また、生ウメから採ったウメ酢を調味料や染料、金工などに使っていた。
今日ほど文化の発達していなかった古代日本において、ウメは単にたべものというより、それ以上の、
価値ある必需品であった。
一説によれば、梅干しはウメ酢を採ったあとの廃物――実を利用したのが、そもそもの発端だといわれる。
ウメ酢は金工には欠かせぬもので、中国からメッキの技術が伝わると、金工たちはみずからの手でウメ酢をつくり、
大正ごろまで、カザリ職人はウメ酢を使って、仏具や神輿の金具を金箔でメッキしていたという。
強い酸を必要とするとき、ウメ酢はなくてはならぬものであった。
(中略)
(梅干しは)食品というよりは、薬品というふうに考えられていた。
梅干しが食品として発展するのは、江戸時代に入ってからのことである。
戦国時代には、梅干しはやはり薬用として重んじられ、唾液を催させる「息合(いきあい)の薬」として用いられた。
合戦などの際、息を調えるのに用いたもので、米の粉と氷砂糖の粉末と梅干しの肉で練った薬である。
(中略)
梅干しが兵食としての地位を確保するのは、ようやく幕末に近くなってからである。』
そして、梅干しの効用について、
『梅干しはクエン酸を多量にふくみ、強い殺菌力を持ち、胃の中で強力な酸性反応を起こして病菌を退治する。
また、血液の成分の中に乳酸の量が増えると、筋肉のタンパクと結合して乳酸タンパクとなって固まり、
からだの筋肉がこわばったり、肩がこったりするが、梅干しは乳酸のできるのを防ぐので、疲れをいやし、
活力を回復するのに役立つ。
(中略)
頭痛や歯痛のとき、コメカミやホホに梅肉を貼るのは、今でもよく見かけるが、これはまじないではなく、
梅干しに熱を吸収する力があって、それが痛みをやわらげてくれるからだ。
食あたりの多い夏場など、梅干しを毎朝食べていると、予防に役立ち、ことに旅に出て、水あたりしやすい人は、
朝のお茶請けに梅干しを召上がられたらよい。
「梅はその日の難のがれ」と、ことわざにもいい・・・(以下略)』