「承久の乱」(7)
「高桑氏族」 覚書(20)参照
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇の鎌倉幕府討滅の宣旨(せんじ)が発せられ、その上皇命令書は、直ちに鎌倉に達せられた。それは朝廷による幕府に対する宣戦布告であり、幕府の存亡に関わる重大事態の出来(しゅったい)である。
当時源家は、既に僅か3代で断絶して居り、幕府の存続は、執権・北条氏の肩に懸かっていた。幕府は勿論宣旨を受入れず、反対に京都朝廷覆滅を決意した。
此処で「尼将軍」と謳(うた)われた北条政子の登場となり、御家人(ごけにん、本来は鎌倉将軍の家臣)を集めての、有名な演説となった。政子の演説要旨 「故頼朝が平家を倒し、幕府を草創してから関東武士達は、官位も俸禄も十分な恩恵に浴した。しかるに今、逆臣の讒言(ざんげん)により、非義の勅命が下された。この勅命を奉じたき者は、この場から去って、官軍に馳せ加われ。鎌倉の恩に報いようとする者は、幕府軍に加わって京都へ出撃せよ。」 一武将に代読させたにしろ、この声涙共に下る名演説により、参集した武将達は、袖を覆い、落涙して幕府軍への従軍を誓ったという。
後鳥羽上皇は、前述の通りの「傑物」であったが、政子も「尼将軍」の名の通りの女傑、女丈夫であり、「傑物」であった。こうして京都の傑物と東国の傑物との対決となり、多くの戦死者・犠牲者を生むこととなった。
写真は、「承久の乱戦没者供養碑群」
「高桑氏族」 覚書(15)参照
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