ブログでも画像表示ばかりではなく、もし音声を鳴らすことができれば、表現の可能性はぐっと拡がる。
音楽について論じているとき、論じている音曲をそこですぐ聴くことができれば素晴らしいことだ。
また、人声を入れるのも面白いのではなかろうか。何といっても、人間のコミュニケーションは「お喋り」から始まったのだから、文字情報ばかりの世界から少々離れて、「お喋り」を組み込んでみるのも刺激的なブログができるのではあるまいか。最終的には、動画を使うことも考えられるであろう。
私はフランスに住んでいる2歳半の孫のブログを楽しんでいる。そのブログで、もし孫の声を聴くことができれば、楽しさは格段のものとなるであろう。そこには、テレビ電話とはまたひとつ異なるブログ独自の世界があるのではあるまいか。
次の試みは、ブログの世界でそのような音声の世界を切り開く第一歩である。といっても、第一歩といえるような大袈裟な代物ではなく、いままでウェブサイトで広く使われてきたごく普通の技法のひとつに過ぎない。
要はブログという日常的なコミュニケーションの場において、音声をどのようにうまく取り込んでいくかという問題である。
次の画像(ベートーベンの遺書の家)の上をクリックするとソナタ「月光」が奏でられる。この例ではMIDIファイルを組み込んだ。なお、演奏中にモニター画面に何を表示させておくべきかは、これから工夫を要する点であろう。
ベートーベンの遺書の家(ハイリゲンシュタット)
演奏 ソナタ「月光」第一楽章
演奏時間 4分40秒
また、音楽以外にも、例えば赤ちゃんの泣き声のような、自然の音声を鳴らすこともできる。次の例では、何年か前にデジタルレコーダーで録音したWAVファイルを組み込んだ。
もちろん、自分の会話を組み込んでも一向に構わない。けれども、こういうやり方にまだ慣れていないせいか、自分の生々しい声をブログで聴くと、ちょっと気恥ずかしい気持になる。
でも、例えば職場で若い部下たちを叱りつけるときなどは、文字で叱るより自分の声で叱りつけるほうがずっとパンチが効くし、後腐れも少ないのではあるまいか。彼らは私が叱る声なぞ再生したくないかもしれないけれど...。
孫が生まれた。母子ともに健康だ。
音楽について論じているとき、論じている音曲をそこですぐ聴くことができれば素晴らしいことだ。
また、人声を入れるのも面白いのではなかろうか。何といっても、人間のコミュニケーションは「お喋り」から始まったのだから、文字情報ばかりの世界から少々離れて、「お喋り」を組み込んでみるのも刺激的なブログができるのではあるまいか。最終的には、動画を使うことも考えられるであろう。
私はフランスに住んでいる2歳半の孫のブログを楽しんでいる。そのブログで、もし孫の声を聴くことができれば、楽しさは格段のものとなるであろう。そこには、テレビ電話とはまたひとつ異なるブログ独自の世界があるのではあるまいか。
次の試みは、ブログの世界でそのような音声の世界を切り開く第一歩である。といっても、第一歩といえるような大袈裟な代物ではなく、いままでウェブサイトで広く使われてきたごく普通の技法のひとつに過ぎない。
要はブログという日常的なコミュニケーションの場において、音声をどのようにうまく取り込んでいくかという問題である。
次の画像(ベートーベンの遺書の家)の上をクリックするとソナタ「月光」が奏でられる。この例ではMIDIファイルを組み込んだ。なお、演奏中にモニター画面に何を表示させておくべきかは、これから工夫を要する点であろう。
ベートーベンの遺書の家(ハイリゲンシュタット)
演奏 ソナタ「月光」第一楽章
演奏時間 4分40秒
また、音楽以外にも、例えば赤ちゃんの泣き声のような、自然の音声を鳴らすこともできる。次の例では、何年か前にデジタルレコーダーで録音したWAVファイルを組み込んだ。
もちろん、自分の会話を組み込んでも一向に構わない。けれども、こういうやり方にまだ慣れていないせいか、自分の生々しい声をブログで聴くと、ちょっと気恥ずかしい気持になる。
でも、例えば職場で若い部下たちを叱りつけるときなどは、文字で叱るより自分の声で叱りつけるほうがずっとパンチが効くし、後腐れも少ないのではあるまいか。彼らは私が叱る声なぞ再生したくないかもしれないけれど...。
孫が生まれた。母子ともに健康だ。