何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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反逆するヒーロー六歌仙

2004年09月24日 | 歴史
『古今和歌集』に集められた和歌。「和歌」という言い方は、中国化が推進された平安初期だからこその呼び方なんだな。この時代、『万葉集』にみられる古くからの日本の定型詩は、漢詩に対して和歌、日本の歌と呼ばれたんだ。朝廷の公の文芸は漢詩になったけれど、しかし、和歌が途絶えることはなかった。セイゴオ先生が言ったように政権から遠ざけられた貴族たちのサロンで和歌がよまれた。タテマエは漢詩で、ホンネは和歌というわけだな。

こうして私的な文学となった和歌を『古今和歌集』につなげたのが六歌仙とされる。僧りょの遍昭(へんじょう)、絶世の美女・小野小町(おののこまち)、モテモテの色男で有名な在原業平(ありわらのなりひら)、官吏でもあった文屋康秀(ふんやのやすひで)に、喜撰(きせん)法師、大伴黒主(おおとものくろぬし)の6人。六歌仙とは、いったいどんな人々だったんだろう?

六歌仙の中でも、最も古い遍照は、桓武天皇の血筋を引く良岑(よしみね)氏に生まれ、849年には蔵人頭になった優秀な官僚だった。けれど、藤原氏の強引な政治にいやけがさし、妻子にも告げず、突然、比叡山で出家し、天台密教の修行にはげみながら、和歌をつくる日々を送った。遍照は、僧りょになって俗世を離れ、和歌に遊ぶ「歌僧」のはじめとされているんだ。遍照は悲運の皇子、惟喬(これたか)親王や六歌仙の紅一点、小野小町とも和歌を交わしている。

小野小町のことは聞いたことがあるよね。小町は遣隋使の小野妹子を輩出した小野氏の出身といわれている。『大和物語』に官僚として活躍していた若き日の遍照に恋して、和歌を贈りあったとあるけれど、生涯はナゾに包まれている。小野氏は桓武天皇のとき、蝦夷征伐の将軍として活躍した。東北地方には小野氏を名乗る氏族が多く、伝説では、小町は出羽の福富荘(現在の秋田県雄勝町)に生まれ、13歳で京都に上り、天皇の身のまわりの世話役、更衣(こうい)となったというんだな。

小町の美しさは超有名で、宮中の勤めを辞めると、そこらじゅうの貴族が求婚してきたけれど、みんな断ってしまった。深草少将に百夜通えば妻になると約束し、百夜目に少将が死んでしまったという「百夜通い(ももよがよい)」の伝説もある。小町は、いわば、つかのまの美ぼうによって貴族に愛されるより、永遠に残される和歌の世界に命をかけたともいえる。これは貴族を最高の存在とする時代への反抗でもあったわけだな。

六歌仙の一人が日本の美女の代表なら、もう一人、美男代表がいるのも六歌仙のすごいところ。そう、在原業平だ。業平は薬子の乱を起こした平城天皇の孫なんだな。平城天皇の皇子には、第一皇子の阿保(あぼ)親王と、皇太子の位を奪われてインドに行こうとして異国で死んだ第三皇子の高丘(たかおか)親王がいて、この二人の子孫が在原氏となった。業平は『古今和歌集』に30首も取り上げられた和歌の力量もあって、女性たちに大いにモテた。でも実は業平には、大きな野望があったんだ。

そこには惟喬親王の存在がある。文徳天皇の第一皇子だった惟喬親王は、摂関政治の確立をめざす藤原良房の最大のライバルだったんだね。親王のまわりには業平をはじめ、反藤原派の貴族が結まった。業平は、惟喬親王が天皇になったら、藤原氏を抑えて皇族の政治を復活しようと考えていたんだ。反藤原氏の政治サロンでは和歌をよみあい、惟喬親王を中心とする、いわば政治結社の団結を深めた。けれども、惟喬親王は皇太子になれなかった。

藤原良房は惟喬親王に強引な圧力をかけ、自分の娘が生んだ1歳の赤ん坊を皇太子とすることに成功した。これがのちの清和天皇だ。惟喬親王は大宰府の長官、諸国の国司などにまわされ、ついには僧りょとなって、世をはかなんで滋賀県の小野の山里に隠れ住み、和歌をたしなむ日々を送ることになる。

業平のほうはどうなったかというと、藤原良房が清和天皇の皇后に立てようとしていた藤原高子(たかいこ)と恋仲になってしまった。政界のドンの良房にしてみれば、業平はまさにお邪魔虫。良房ににらまれ、京都にいられなくなった業平は関東に下ったといわれている。この業平の生涯を物語にしたのが、有名な『伊勢物語』だね。

この藤原高子が皇后になり、王宮のそばの二条に邸宅を構えていたとき、そこに出入りを許された歌人が、文屋康秀だった。文屋氏は天武天皇から分かれた家柄だが、地方長官の位にとどまっていた。康秀は若かったころ、三河(みかわ、愛知県東部)の地方長官に決まって任地に出発するとき、小野小町に和歌を贈って、いっしょに来てくださいと誘ったが、見事に断られた。しかし、その和歌が歌合で大評判をとったんだ。康秀は和歌で皇后の関心を引いて出世を願ったが、そんなに地位は上がらず、うらみの歌も残している。

そして、喜撰法師は素性もしれない修行僧で、醍醐山をはじめ、京都の東南の山中で修行していたらしく、仙人となって、どこかに飛び去ってしまったという。最後の大友黒主は近江の豪族らしく、壬申の乱で殺された大友皇子の子孫ともいわれている。今も琵琶湖のほとりに建つ、壮大な園城寺の建設に寄与したという伝説が残されている。この二人は『古今和歌集』には喜撰がただ1首があるだけで、大友黒主は一首も残されていない。

こうしてみると、この六人の歌人は摂関政治に不満をもっている、あるいは貴族社会から遠く離れた別世界に生きた人たちだったことは事実なんだな。6人の生き方は、王朝への反抗、時代への抵抗でもあった。しかし、こんな六歌仙を在原業平をのぞいて、紀貫之はあまり高く評価していない。宮廷の文学の中心が和歌となろうとする時代に、王朝に反抗する和歌はすでに意味がなくなっていたためなんだ。

紀貫之は、『古今和歌集』の序文で、近年の和歌の特色を示すために、たまたま伝説のベールにおおわれた6人を「近き世に名の聞こえた歌人」としたのかもしれないね。ところが、偶然にも6人だったことが意外な効果を生み出した。さあ、なんだか分かるかな? 

6という数は中国の聖典の「六経」に通じ、正義を暗示する数字なんだな。また、雪の結晶が6角であることから、陰と陽を基本とする中国古来の自然観では、陰の極みとされ、陰から陽への転機をも表している。それは、時代の転換をも意味してるんだ。このような中国哲学の影響が一般にも広がった13世紀ころには、紀貫之が挙げた、世に入れられなかった6人の歌人が、時代を変える特別なパワーをもつ仙人とみなされ、六歌仙とされるようになったらしい。

このイメージは江戸時代にも伝わっている。江戸歌舞伎の「六歌仙物」は、六歌仙が反逆を実行するというSFまがいのストーリーだ。5人のいやしい職人や物売りが美しい町娘に和歌を贈って近づいてくるが、実はみんな六歌仙の生まれ変わりで、中でも大悪党の黒主がほかの五仙を誘って、天下の転覆をはかるという話なんだ。これが、政治にうんざりしていた江戸の庶民の大喝采を浴びた。さらに義侠(ぎきょう)心にあふれた六人のゴロツキが天下を動かそうとする奇想天外な物語、『天保六花仙』(てんぽうろっかせん)にも発展した。

つまり、正統からはずれ、世に反抗を続けた人物は、時代を超えて、いつだって人々の思いを代弁する役割を担っているというわけなんだな。


『万葉集』が残した言葉の力

2004年09月20日 | 歴史
万葉仮名で日本語表記の第一歩を切り開いたのが、『万葉集』なんだな。そこには日本の心が歌われているというけれど、それって実際どんな内容だったんだろうか? 『万葉集』の最も古い歌から見てみよう。

「君が行き 日長(けなが)くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」
から始まる、恋の歌4首が『万葉集』の中で一番古いとされる歌だ。5世紀初め、倭の五王のトップを切る倭王讃(さん)とされる仁徳天皇の皇后、磐姫(いわのひめ)の歌なんだ。
「君」とは仁徳天皇。あなたが出かけてずいぶん日にちがたちましたが、迎えにいきましょうか、待っていましょうか、と歌っている。

磐姫は葛城襲津彦(そつびこ)の娘だった。襲津彦は朝鮮半島で暴れまわったことで知られ、倭国を国際舞台に登場させた人物でもあった。襲津彦の勢力を背景にした磐姫は、『古事記』や『日本書紀』(この2つをまとめて「記紀」という)では、天皇にやきもち焼くわがままな女性として描き出されているんだ。

記紀が示す天皇をトップとする国家の理想からすれば、天皇にやきもちを焼くなんてちょっとすごいことだね。けれども、夫を思いこがれる磐姫の恋の歌を取り上げる『万葉集』は、たとえ皇后であっても、感情をあらわすことが大切にされているんだ。また、押さえきれない心が、歌になるということも伝わってくる。

ここで『万葉集』の巻頭に挙げられた歌をみてみよう。それが、あの日本で一番古い鉄剣の文字に書かれていたワカタケルの名前で知られる、雄略天皇の有名な長歌だな。
「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
この丘に 菜摘ます児 家告らせ 名告(の)らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて
 われこそ座せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」

何の歌か、全然わかんないって? これは、春の若菜つみの風習を題材に歌ったもの。古代には冬の間、青い野菜がなくて身体が不調になるため、春に野草を食べることはとても大切だった。それが重要な行事とされて、野草には復活の霊魂が宿り、衰えた身体を癒すと考えられていたんだな。いまでもこれは、春の七草をお粥(かゆ)に混ぜて食べる「七草粥」に残っているよね。

で、このような霊魂が宿る若菜を摘むのは少女たちの役割だったんだ。自然界の霊魂を扱うことができるのは女性と考えられていたからね。これは男性陣としては、絶好の出あいのチャンスでもあった。なんと天皇まで若菜摘みの見物に出かけて、若菜を採る娘に「私のもとに大和の国がひれふすんだぞ、名前も家も教えるぞ」と、声をかけた。上の歌の意味はそういうことだ。そして、このような思いを公然と言葉にすることを「言挙げ」(ことあげ)というんだな。

『万葉集』が収録する「柿本人麻呂歌集」に、「芦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は 神ながら言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞわがする‥‥‥」という長歌がある。倭国では神々が世界を動かすので、本当は言挙げしないけれど、自分の心が押さえられないことが起こったら言挙げする、と歌っている。言挙げした言葉の形こそ、前回説明した、言霊が助ける「日本の歌」というわけだね。

言挙げは、国際状況や政治の状態に対してすることもあるけれど、やはり恋を伝える「言挙げ」が最も多いんだ。この時代の結婚は、男女の家系が結ばれることでもあったから、まず家や名前を告げる「言挙げ」をしなくてはならなかったんだね。雄略天皇の歌は古代の恋の作法とともに、「言挙げ」の意義、「日本の歌」の意義をも伝えていた。

この磐姫と雄略天皇の歌は、『万葉集』の中でも極端に古いんだ。いわば倭の五王時代の最初と最後を示して、日本の歌の伝統を象徴させているともいえる。その次に古い歌となると、7世紀の舒明(じょめい)天皇の歌がある。香具山(かぐやま)に登って、国見をする歌で、国見は天皇が必ず行うべき儀礼だった。でも、それは藤原京、奈良京へと都が移ると失われていってしまうんだね。

『万葉集』の歌のほとんどは、この後の天智天皇の時代から奈良時代中ごろまでの100年間に詠まれるわけだ。この時期ってどんな時代だったか、覚えているかな? 地方豪族の分権体制から中国風の中央集権体制へと大転換したんだったね。古代の豪族たちが、この間に次々に滅びていった。でも単に豪族が滅ぶという政治の問題だけじゃなかったんだな。

映画「ラストサムライ」で描かれていた時代の変化と同じように、古代豪族の滅亡は、それまでの言葉や風習、文化を担う人々が失われる事態を招いたんだ。『万葉集』はそんな流れに抵抗して、日本の言葉の文化を後世に伝える役割を担ったんだね。『万葉集』を編集したのが、大伴家持だった、というのも象徴的だ。大伴氏は古来の天皇家直属の軍隊を率いた家系であると同時に、言葉という歌を集める役割も果たしていた。

えっ、歌を集めるって、なんだって? 和国が日本列島を統一するのには、実は、武力だけでは足りなかったんだ。細長く、地域によって言葉が違う日本では、古代の戦争は言葉の戦争でもあった。支配の力を発揮するには、相手の言葉に象徴される文化を吸収して編集する必要があったわけだ。だから、軍隊である大伴氏は、言葉を狩る一族でもあるんだな。『万葉集』にある「防人の歌」は、755年、大伴家持が東国から難波に連れてこられた防人を閲兵し、彼らに献上させた歌だった。それが服属をさせるあかしだったんだね。

平安初期には読めない文学でもあった、とセイゴオ先生が言っていたように、『万葉集』は、万葉仮名の解釈をはじめ、解明されていない部分も多い。でも、こうして日本文化の古い姿を伝え、また、言葉のもつ力の大きさを象徴する存在だったので、以降の日本の歴史の中では、たくさんの学者や文化人が取り上げるメディアとなって、現在に伝えられていったというわけだね。

『万葉集』に映る歌う日本人像

2004年09月10日 | 歴史
『万葉集』とは、たくさんの言葉を集めた意味だと、セイゴオ先生が教えてくれたね。でも集めたのは、なぜ歌だったのだろう? それにはあのちょっと不思議な言霊(ことだま)が関係しているんだ。言霊は、言葉の表現の中では、五七五、七七というリズムを持つ歌の形が、一番乗りやすいと思われていた。つまり、『万葉集』は言霊という魂を伝える言葉を集めて編集したわけなんだね。

歌の種類も多様で、古くから伝わる伝承歌、民謡や流行歌、物語の歌、そして創作された歌まで、あらゆる歌を集めている。古代の日本人にとって歌は非常に身近なメディアだった。神々に祈るときも、戦うときも、遊ぶときも、恋人に愛をたしかめるときも、旅するときも、楽しみも苦しみも悲しみも、歌にして伝えたんだな。

中国やインド、ヨーロッパなどでも、詩文学は上流階級、知識人に独占されて、庶民が自分の言葉で詩歌をつくるなんてめったになかった。これに比べて、天皇をはじめ、皇族・貴族・官人・僧りょ・農民・漁夫・遊女など、階層にとらわれず、老若男女がそれぞれの言葉でつくった『万葉集』の詩歌は、世界文学史上でもまったく驚くべきものなんだ。

ということで、今日はちょっと『万葉集』の歌にくわしくなってもらおう。『万葉集』の歌は、長い歌に短い歌、リズムの違い、そして、いつ、何のために歌ったかということで分けられるんだな。

歌の形で注目されるのが、五七を3回以上連ねて、最後に五七七で終わる「長歌」(ちょうか)だ。長い歌だから、後世に「長歌」と呼ばれるようになったけれど、もともとは儀式の歌を起源としたんだ。だから、神の祭りや季節ごとの催事、天皇や地域の首長がみずから治める地域を見晴らす国見(くにみ)といった歌が多く、葬送の儀式や一般の家族の生活や地域の様子などをうたう歌もある。言葉の技を尽くした歌が多いんだな。

長歌には、その内容をまとめた五七五・七七の歌が添えられる。これを「反歌」(はんか)というんだ。この「反」は、反対の「反」じゃなくて、反省の「反」なんだ。つまり長歌はどんなことを歌っていたのか、とふりかえって歌ったのが反歌なんだね。この五七五・七七の5句からなる「最小単位の長歌」ともいうべき短い歌が自立して、いわゆる和歌(わか)、短歌(たんか)になる。このように和歌は長歌の大きな世界を背景に、濃縮と比喩を駆使して歌われたために、日本の詩文の中でも特別な地位を占めるようになるわけだ。

それから、五七七、五七七のリズムからなる「旋頭歌」(せどうか)がある。神と人の問答を原型にした古い旋律の歌で、山上憶良(やまのうえのおくら)や大伴家持らの有名な歌人もつくっているけれど、民謡が多く、方言もたくさん使われているんだ。前の五七七が問い、後の五七七が答えになっている歌もある。最初の句の頭のイメージを、次の句の頭でくりかえすので、旋頭歌という。たとえば、こんな歌だ。
「玉垂(たまだれ)の 小簾(をす)のすけきに 入り通ひ来ね 
たらちねの 母が問はさば 風と申さむ」

これは古代の夫婦の様子を歌ったもの。古代の夫婦は妻問い(つまどい)といって、夫が妻の家に通うんだね。夫が訪ねてきたので、部屋の表にかけた御簾(みす)を分けて入ってください、そのとき、お母さんが誰か来たのかと言ったら、風ですよと言いますから、という意味。「たまだれ」と「たらちね」が呼応しているのがわかるね。

そして、仏足石歌(ぶっそくせきか)という五七五・七七七の6句からなる歌がある。奈良の薬師寺に建てられた仏足石(釈迦の足跡を紋様風に彫刻した石)に添えられた歌碑に刻まれた21首の歌が、このリズムであることから、仏足石歌とよばれている。和歌の五七五・七七の最後の7拍を繰り返した形だね。

『万葉集』の歌はどんな内容が詠まれていたかでも呼び方がある。大きく分けると、雑歌(ぞうか)、相聞歌(そうもんか)、挽歌(ばんか)の3つ。雑歌は、雑な歌、じゃなくて、宮廷の儀礼や行幸(ぎょこう)、宴会などの行事を中心に多様な日々を詠んだ歌だ。相聞歌は二人がやりとりした歌、今でいえばケータイメールで、恋の歌が多い。日本人のプロポーズは、相手に歌を贈ってするものだったんだな。挽歌は亡くなった人をお葬式でしのぶ歌だ。

そのほか、旅の歌、何かに心をたくす比喩(ひゆ)の歌、人を笑わせる滑稽(こっけい)の歌などがある。特別なものとしては、関東の方言で歌われた東歌(あずまうた)や防人の歌があって、まさに東西日本のさまざまな人々の思いと心が歌われている。

この『万葉集』の伝統は、現在の日本にも受け継がれているんだ。なんてったって子どもたちをはじめ、こんなにも多くの人が短歌や俳句の形で詩歌をつくり続けている国は、世界にもそうそうないんだからね。

遺跡発掘で見えてくる平安荘園ライフ

2004年09月07日 | 歴史
古代に経済を支え、あげくはバブル崩壊まで引き起こしたほど、荘園は重要な社会基盤だったわけだ。しかし、その荘園に生きた人びとは、いったいどんな暮らしをしていたのか、想像がつくかな? 平安時代から室町時代の終わりまで続く荘園の暮らしが分かると、地方の生活が見えてくるはずだけど、その実像はこれまでなかなか分からなかった。

近年になって、地方の高速道路や地域開発によって、荘園の遺跡が次々に発掘されると、その荘園の実体が明らかになってきたんだ。じゃ、今日はちょっとガクモンして、考古学や史料からみた荘園生活を話してみよう。

まずは、古文書調査からだ。『百合文書(ひゃくごうもんじょ)』という東寺の荘園について書き記した文書が残されている。そこには、今の兵庫県の篠山(ささやま)市のあたりに、平安時代の初期、摂関政治の基礎をつくったあの藤原良房が領有した「宮田荘」(みやたそう)という荘園があって、室町時代まで続いたと記されているんだ。しかし、長い間、実際にはどこにあった荘園なのか不明だった。

1985年、近畿自動車道舞鶴線の建設に先立つ調査で、弥生時代後期から古墳時代前期、奈良時代末期から平安時代中期、平安時代末期から鎌倉時代の3層におよぶ集落の遺跡が発見された。「西木ノ部(にしきのべ)遺跡」と名づけられたこの遺跡は、三方を山で囲まれた谷のゆるい斜面にあり、その下方には宮田川が流れ、その流れにそって水田が広がっている。

調査の結果、遺跡の古い層、弥生時代にはじまった集落は一度とだえ、奈良時代末期に新たに開墾され、柵で囲われた建物遺跡群がつくられ、さらに平安時代末期に新たな建物群に発展したことがわかってきた。これが『百合文書』に記された「宮田荘」の記載と一致したんだね。良房から室町時代中ごろの、藤原氏の中の近衛家(このえけ)に続く藤原氏の荘園、「宮田荘」の中心部がここだったんだ。

では、発掘された荘園からはどんな生活の様子が見えるんだろうか。平安時代中期までの層からは、掘立柱建物跡を中心にした建物跡群や井戸、溝などが発見された。南側の谷に排水用の溝があって、そこから、なんと100点以上もの緑釉陶器(りょくゆうとうき)の破片が出土したんだ。

奈良時代に、日本には唐の時代を代表する黄色、白色、緑色の三色で彩った唐三彩(とうさんさい)という焼き物が入ってきて、奈良三彩という焼き物がつくられたんだけれど、緑釉陶器はその緑色だけの釉薬(うわぐすり)を全面にほどこした陶器で、当時の平安日本では貴重なものだったんだ。

なぜかというと、唐王朝の中期以降、、南方の越州(えっしゅう)でつくられてきた越州青磁(せいじ)といわれる美しい焼物があって、これが日本の貴族に大変人気だったんだな。でも、中国から輸入される青磁は、極めつけの高級品で、貴族といえどほとんど手が出せない。そこで、現在の青磁に比べて緑がかっていた越州青磁を、京都、滋賀、美濃(みの)などで焼かれた色の近い緑釉陶器で代用したんだ。それでさえ貴族でなくては絶対に手に入れることができなかったんだね。

このような舶来高級品風の緑釉陶器のみならず、建物跡には、奈良時代から朝廷に出勤するときの礼服に使用した中国風の革帯(かくたい、皮製のおび)の飾り具、硯(すずり)なんかもあった。そして、平安時代末期の層からは、中国でつくられた合子(ごうす)というふたつきの壷も発見される。これは化粧品や薬を入れるのに使ったんだな。

これらの遺物から、この荘園に生きた荘官の生活が見えてきた。宮田川流域に広がる水田を管理した荘官の館では、高価な中国風の緑釉の陶器に、中国風の料理を日本の素材でアレンジした食事が出されていた。革帯の飾りは、この荘園の管理者が、直接、朝廷に出かけて執務するほどの位にあったこともわかる。

その中国的な生活の一方で、神社の建築などと共通する掘建柱(ほったてばしら)の館に住んでいたから、生活空間はあくまでも和風だったということもわかったんだ。衣服や食事は中国風で、全体としては和風の生活。この中国のところを欧米に置き換えたら、いまのちょっと高級っぽい生活にもあてはまるね。

さらにこの遺跡からは、3つの木組の井戸が発見されている。その1つから、井戸を祀ったときに使った木製の斎串(さいぐし)が発見された。これは細長い板の先を細長くとがらせ、左右に切りこみをいれた串状の木製品で、神を祭る道具だ。また、皇朝十二銭の1つ、隆平永宝(りゅうへいえいほう、795年に初めて発行)や、儀式に使われたと思われる墨で文字を書いた墨書(ぼくしょ)土器なども出土した。

荘園の中心地に発見された井戸から、その水が荘園を治めるために重要性な意味を持っていたことが伝わるんだ。井戸は、川や池よりもはるかに飲用に適した水を荘園の農民たちに提供できるからね。墨書土器などが出土するのは、ここが聖なる場所とみなされて、荘園をあげての盛大な祭りが行われたためだと考えられているんだ。

一方で、遺跡を囲んでいるのが実に頑丈な柵だったこともわかった。それは、ここが年貢を集めて出荷する場所で、盗賊に対するものであったこともあるけど、囲われた荘園というものが、荘園外の周辺農民とも一線を画し、緊張関係を持っていたことも暗示させるんだな。



寄進は商業の始まり

2004年09月06日 | 歴史
鵜飼が天皇に献上するための漁だったなんて、セイゴオ先生の解説に驚いた人もきっと多いだろうね。こうした朝廷や神社に、さまざまな生産物を寄進していた人々、彼らの活動は実に多彩で、商業や芸能の発生にも深ーくかかわっていたんだ。じゃ、ちょっとそれを覗いてみよう。

寄進の歴史はとても古く、飛鳥時代にもさかのぼる。古代では、国民の大部分は農民で、たいがい自給自足の生活だったから、毎日の着物も食物も自分でつくって、足りないものは物々交換すれば大体まかなえた。でも、そんなことのできない天皇や豪族はどうだったのだろう?

物々交換ばかりで店もないので、宮中のだれかが新鮮な野菜や魚や果物を買いにいくわけにもいかない。また、気軽な交通機関なんてないので、産地まで出かけるのも大変。そこでつくったのが、米から日々の生鮮食品、さまざまな織物や家具、調度などを、生産者に寄進させる方法だったわけだ。

寄進のシステムは、さきに神社で発達していたんだね。神社をまつる人びと、今でいうと氏子(うじこ)が、神社を建て、織物の幡(はた)や木工の収納箱や祭壇、鏡などの金属器や祭りの陶器など作る。さらに神饌(しんせん)という神さまの食事も用意して、歌や音楽も提供していた。ここには神社に奉仕し、生計を立てる職人集団が生まれていたんだな。

とくに魚介類や海藻、野菜などの副食品を贄(にえ)といって、これは毎日、神社にささげなくてはならなかったから、神さまとより深い関係にあった。だからこうした神さまにまつわる品物をつくって寄進する人たちを、「贄人」(にえびと)と呼び、一種の神聖な職業ともなっていったんだね。今でも、伊勢神宮のための鮑(あわび)をとる海女(あま)や塩焼きの職人などに、古い贄人の姿が残されている。

こうした神社を中心に地域共同体をまとめていたのが、古墳時代から飛鳥時代にかけての豪族たちだった。かれらは贄人にさまざまな生活物資を生産させ、野山や海川から産物をとらせて、寄進させたんだな。そのとき給料にあたる田畑を与えて、それを保護したんだ。そして、天皇を頂点とする朝廷ができてくると、天皇とその一族の生活物資を提供する屯倉(みやけ)などが各地につくられていったわけなんだ。

しかし、8世紀に入り、律令国家の体制が整ってくると、贄人の慣習も崩れそうになった。律令制の公地公民の下では、土地は国有地だね。神々の世界とされていた山野、川海などが分割され、人手が入るようになってきた。そこで、国家のトップでもあるけど、地域の共同体の首長でもある天皇は、律令制の下で贄人と彼らの土地を天皇の直属と正式に定めたんだ。そして寄進は、従来の慣習から離れ、律令が定める義務とされた。

平安時代の初期まで、こうした人びとは生鮮食品の寄進者のイメージが強かったので、まだ贄人と呼ばれていた。けれど、律令体制では、宮中での天皇、皇族の食事を「供御」(くご)と呼んだので、やがて広く物品を寄進する人びとを、禁裏供御人(きんりくごにん)と呼ぶようになるんだな。炭を提供する炭供御人、夏に氷を提供する氷室(ひむろ)供御人、猪(いのしし)の皮を寄進する猪皮(いのかわ)供御人など、いろいろな手工業生産物を貢納する者は、すべて供御人となった。供御人たちは、朝廷の許可を得てさまざまな省庁に属したんだけれど、この許可を与えられた供御人のトップは、実は女性だったんだな。

たとえば、現在、京都の風物として知られる大原女(おはらめ)には、薪を宮中に納めた供御人の姿が残されている。供御人を統括する資格が女性にある理由は、こういった人々が神社の巫女(みこ)を起源としていたからなんだね。そして、供御人たちには、宮中に納めた残りを京都の町で売る特権を与えられたんだ。いわば商人の始まりだな。そのため、この後も日本の商人の主力は女性になる。だから、今でも伝統的な市の売り手には、女性が多いんだね。

供御人の仕組みは平安時代中期には、朝廷だけではなく、貴族や寺社にも拡大した。地域の有力者、長者などが、一族の女性を立てて供御人の称号を得て、皇族、貴族、寺社への寄進物をつくる地域、「御厨」(みくりや)を設置しはじめた。特権的なこの貴族らの行為には反発もあって、883年に太政官が発行した文書には、「皇族、貴族、寺社などが地方勢力と結んで、贄人の許可を乱発し、弱い班田の農民をしのぎ、政治を害している」と書かれている。

しかし、これは供御人の寄進の制度を利用して、これまで朝廷に隷属(れいぞく)していた公務員としての各地の職人を、民間に開放したともいえるんだ。これが地域に新たな産業をおこし、朝廷が独占していた運輸業などの自由化に結びつく。また、供御人たちには芸能を奉納する人々がいたけれど、各地の歌舞・演劇などは、宮中や寺社だけで演じられていたんだね。その芸能が広く開放されて、都の文化と地方の文化が合わさり、編集されて、新たな日本文化が生まれていった、というわけなんだ。