何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

内紛だらけの源氏一族の歴史

2004年11月25日 | 歴史
西海を根拠地に海洋国家をめざした平氏と、東国の農耕地を確保して騎馬軍団を組んだ源氏はいよいよ対決の時を迎えた。そこにはセイゴオ先生が言ったように源頼朝、平氏、源義仲と3つの力のバランスを考えた、後白河法皇のパワーポリティクスがあったんだ。でも、頼朝と義仲はもともと従兄弟の関係なんだ。なぜ義仲は、長野県の山深い木曽から立ち上がり、頼朝とも対決したんだろうか?

実は源氏軍団の歴史というものは、一族の中の覇権争いを繰り返した、悲劇の歴史だったといえる。源氏はそこから不死鳥のようによみがえっていくんだけれど、ここでは、ちょっと長いけれど、歴史の授業ではあまり語られない、八幡太郎源義家のあとの源氏の歴史を語ってみよう。

また、ぜひ、これから出てくる名前をメモして、話通りに線を引いてほしい。すると頼朝に至る源氏の系図の一部が出来上がってくる。これを歴史の本に出てくる源氏全体の系図と合わせてみると、あっというまに名前と関係が、強烈に頭に入ること、請け合いだ。うんちくをひと手間掛けると、ちゃんと勉強に役立つってわけだな。

さて、八幡太郎義家の後を継いで、源氏の総帥となった子の源義親(よしちか)は、対馬守(つしまのかみ)となったが、大宰府を拠点にして、九州の武士団を源氏のもとに統率しようとしたんだ。そこで逆らう者を攻撃したことが朝廷への反乱とみなされ、島根県の隠岐島に流されてしまう。しかし、義親は隠岐島を脱出し、武者を率いて西海を暴れまわった。1108年、この義親を追討したのが清盛の祖父、平正盛(まさもり)で、平氏が西海を押さえるきっかけになったんだったね。

これで源氏の軍団は統率を失い、ばらばらになってしまった。その上、翌1109年、次に源氏の総領を継いだ義親の弟、源義忠(よしただ)が何者かに暗殺されるという事件がおこった。その暗殺の疑いが、八幡太郎義家の弟の源義綱にかかったんだ。義綱は佐渡に流されたところを、義親の子で、叔父の義忠の養子となっていた源為義(ためよし)の追討を受け、1134年に自害してしまう。こうして、源為義が源氏の総領を継いだわけだ。しかし、為義は平家の全盛期を築いた平清盛に押されて、京都では威勢をふるわなかった。

その源為義の子に義朝(よしとも)、義賢(よしかた)、頼賢(よりかた)、為朝(ためとも)らがいる。彼らが源平の争乱の序曲をつくっていくんだな。

父為義は源氏の根拠地、関東の武士団の統合を目指していた。そこで長男の義朝を幼少時から鎌倉におき、次男の義賢を武蔵国に派遣したんだ。ところが、1155年、源氏はまたもや血なまぐさい主導権争いを繰り返してしまう。

この年、京都に義朝が出仕していた間、わずか15歳で鎌倉の守備をまかされた、義朝の長男・源義平(よしひら)が、武蔵大蔵館で叔父に当たる源義賢を襲撃し、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平はちまたで悪源太(あくげんた)と呼ばれるようになる。「悪」には、わるいって意味だけじゃなくて、強く、恐ろしい、常識破りの意味があるんだな。

義平が叔父義賢を殺してしまったわけは、父の義朝とともに関東を統一するためには、義賢の勢力が邪魔だったからなんだ。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて脱出し、信濃(長野県)の豪族に養育された。この駒王丸が成長して、のちに木曽義仲(源義仲)と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がってくるわけだ。

このころ源氏の総領を継ぐ存在となっていたのは、為義の4男・源頼賢だった。父とともに都で藤原頼長に仕え、寺院や神社の強訴の鎮圧で武名を上げていたんだ。そこへ義賢が甥によって討ち死にした、という知らせが来ると、関東の源氏の統制のために東国に下った。しかし、その軍勢が行軍中に鳥羽法皇の荘園といざこざを起こしてしまう。すると、すかさず法皇は頼賢追討を兄の義朝に命じた。

頼賢は、法皇の下で優位に立った義朝に敗れてしまった。もちろん、そこには源氏の力を弱めようとする法皇の政略がからんでいたんだな。ここに源氏の総領の後継ぎは源義朝しかいなくなったんだ。義朝は関東武士団の統合に乗り出し、武士団と主従関係を結び、従わない勢力を武力で滅ぼしていった。

一方、同じ1155年に、九州にいたもう一人の源氏の英雄が騒動を起こした。為義の8番目の息子で、『弓張月』(ゆみはりづき)で有名な、鎮西八郎源為朝だ。弓の達人で、剛勇の名をほしいままにした為朝は、平家や北面の武士とのいざこざがたえず、九州の阿蘇の豪族のもとにあずけられていたんだ。その為朝が九州の武士団の統合に乗り出したんだな。あだなである鎮西八郎は、西を鎮める源氏の8男、という意味だ。しかし、政府は大宰府を通して為朝に従わないよう武士団に命令。さらにこれが原因となって、父の為義は官位を剥奪されてしまう。

そのため、翌1156年に、源為朝は父に代わって罪に服そうと、九州から上洛してきた。そこに、保元の乱がおこったんだな。このとき、源義朝が父の為義に背いて、清盛とともに後白河天皇方につき、父をはじめ、崇徳上皇方の源氏一族を無残な死に追いやることになる。この源氏分裂の背景には、一族が繰り広げたこれまでの覇権争いが原因となっていたわけだ。父為義とともに上皇方について奮戦した源為朝は、伊豆の大島に流されていった。

しかし、続く平治の乱で、今度は清盛を敵に回した源義朝は敗れ、関東に逃げる途中、暗殺されたんだ。父を殺された悪源太こと義平は清盛を付けねらうが、捕らえられて死罪となった。このとき義平の弟で、義朝の3男である源頼朝は殺されず、伊豆に流された。しかし、源氏はもはや再起不能かと思われたんだな。

それから20年たった1180年、セイゴオ先生が教えてくれたように、以仁王(もちひとおう)の平家追討の宣旨が、伊豆の源頼朝、信濃の源義仲のもとに届いた。同じ源氏とはいえ、これまで見てきたように、二人はもともと敵対する因縁を抱えていたんだ。だからこそ義仲は、どうしても頼朝より先に京都を制圧して、まだ決まっていなかった源氏の総領、武家の棟梁の地位を自分のものとしたかったわけなんだな。


「銭の病」を生んだ宋銭の大流通

2004年11月17日 | Weblog
貿易国家をプランした平清盛が政権をにぎると、宋から輸入した銭貨、宋銭(そうせん)の流通がすごくさかんになったんだ。九州に出現した博多荘などの海外貿易港では、宋銭はとうぜん国際通貨としての働きをしていたんだな。北宋の絶頂期の銅銭の製造量は年間60億枚といわれている。日本へはたった1回の貿易船で数百万枚もの銅銭を持ち帰ったというんだね。こうしてばく大な数量の宋銭が日本国内に流通しはじめた。

お金のことを日本では「貨幣」というけれど、中国では「貨銭」というんだ。この「幣」と「銭」は、もともと意味合いがちがっていたんだ。

日本の「貨幣」の「幣」は、神社の「みてぐら」のことで、神に捧げた布なんだね。これは私有物を離れた公共の「神聖な財」とされてきた。日本の古代貨幣は、寺院や神社に捧げる供物の代わりをしてきたんだ。だから、神にお賽銭(さいせん)を捧げたり、貨幣を寺院の柱の下に、寺院がいつまでも続きますようにという、まじないとして埋めたりしているんだな。

そこに洗練された宋銭が通貨として入ってきて、それまでの日本人の貨幣の考え方がゆらいだんだ。13世紀ごろに書かれた歴史書の『百練抄(ひゃくれんしょう)』には、平家全盛期の1179年6月の記事として、「近日、天上天下、病悩(びょうのう)し、銭の病(ぜにのやまい)と号す」とある。このころ、日本中が病に悩んでいるが、それは「銭の病」と呼ばれているというんだ。

では、宋銭が流通すると、なぜ「銭の病」がおきるんだろうか? それは、平安時代とは、国家により貨幣と物品の交換レートがきっちりと定められていた経済体制をとっていた時代だったからなんだ。

平安時代の京都では、左京、右京に市(いち)が開かれていた。その市を管理する仕事を定めた法律では、毎月1度、さまざまな品物の交換レートを記した帳面を作成し、太政官・京職(京都の町を管理する役場)・市司(市を管理する役場)に保存することが定められていた。市での交易はこれにしたがって行われていたんだ。諸国でも、農民から交易によって品物を徴収するときの交換比率を定めていた。これが平安時代の経済政策の根幹になっていたわけだ。つまり商品に自由な値段をつけることを禁じた、統制経済だったんだな。

平安時代の前期まで、律令政府の下では皇朝十二銭という貨幣が発行されたけれど、銅が不足し、物品の交換の量に見合うほど、十分に供給されなかったんだね。そこで、荘園や公領から貴族や政府に支払われる租税を、貨幣の代わりに用いたんだ。その租税がセイゴオ先生にあったように東国は絹、西国は米だった。これをもとにそれぞれの交換レートを定め、政府が管理する市で交易をさせたんだな。政府が発行を止めたため、わずかに流通していた日本の貨幣は、そうなると仏や神に捧げる神聖な財貨としての性格を強めることになった。

しかし、960年、宋王朝が中国を統一し、宋の銭貨が、前回に話したような九州各地の貿易拠点を介して流通しはじめると、状況は一変したんだ。輸入品へのあこがれが高まるにつれて、それらを手に入れるためには大陸の通貨である宋銭を用いた方が便利になった。すると、日本各地で生産される産品も、輸出品からはじまって、だんだん一般的な品物まで、宋銭で売り買いされるようになってきた。この宋銭は、日本の古来の貨幣に対して、「今銭」(いまぜに)と呼ばれていたんだな。

今銭は、流通しはじめたころは、日本古来の貨幣とはちがって、外国から買ってきたものだから、米や絹と並ぶ交換の媒体に適した物品とみなされ、あまり問題にされなかった。しかし、宋銭が圧倒的に多くなると、銭を多く所有する人が品物を多く買えるようにもなり、価値を一定にした政府の経済政策が機能しなくなってくる。それに神仏と人間を媒介する貨幣の側面も失われてきた。貨幣を私有物の交換の媒介としてしまうことは、神仏のぼうとくとも思われたんだな。

外国の通貨である宋銭が流通した理由には、その圧倒的に優れた品質もあった。宋銭は、贋金(にせがね)を防ぐために、額面の数倍もの価値の青銅を用いていたんだ。宋王朝は、それほど高価な貨幣を発行しても、商業が発展すれば、貨幣を発行する費用以上に国家の収入が増えると考えていたわけだな。

このような宋銭を、日本で流通させる元締めになった平氏は、まるで造幣局をにぎったようなものだったんだ。平家は宋銭で何でも買えるけれど、貴族は荘園からもたらされる米や絹を宋銭に換えないと、物品を購入できなくなる。これに対する貴族の反発は大きかった。

「銭の病」という言葉が記録された1179年、法律を明らかにする明法博士(みょぼうはかせ)でもあった中原基広(もとひろ)は、「宋銭はだれかが鋳たのではなくても、民間で鋳た違法な貨幣と同じ」として、使用の停止を求めている。しかし、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉したほど、権力を拡大している。宋銭の使用禁止令は出されず、ますます宋銭が市場にあふれた。こうなってくると開拓領主である関東の武士たちも、米や絹と宋銭のレートが不安定になって、困ってくる。この後すぐに起こった源平の争乱の背景には、こんな経済の問題も働いていたというわけなんだな。

平氏興隆と大陸事情

2004年11月15日 | 歴史
平清盛を生んだ伊勢平氏が、朝廷で大きな影響力を得たのは、12世紀に盛んになっていた日宋貿易だったんだ。貴族から武士の世へと日本が大きく変化していく時代に、貿易がクローズアップされたのは、セイゴオ先生にあるように、東アジアの大きな変動がかかわっているんだな。ちょっとその様子を見てみよう。

平安時代の中ごろまで東アジアの大部分を治めた唐帝国は、875年に起こった黄巣(こうそう)の乱などによって崩壊が始まった。894年に菅原道真が遣唐使を廃止してから、たった13年で唐帝国は滅び、華北に五代の王朝、華南・四川に十国が乱立する五代十国(ごだいじっこく)の時代に突入したんだ。

この間、朝鮮半島では新羅が分裂して、高句麗系の高麗が成立した。中国の北方では、日本とも友好関係にあった渤海(ぼっかい)が滅び、契丹(きったん)が台頭。契丹は中国の東北地方から蒙古高原に達する遊牧帝国となった。このころ、ヨーロッパで絹をもたらす中国のことを「キタイ」とか「カタイ」と呼んでいるけど、契丹を指したんだな。

960年に五代の最後、梁王朝の将軍、趙匡胤(ちょうきょういん)が中国を統一して宋王朝を興す。この宋という国は、文治主義の君主独裁制で、「宋学」という革新的な儒学を確立させたんだ。この宋学によって合理主義を身につけ、新しい官僚階級として力を発揮したのが、士大夫(したいふ)と呼ばれる人々だ。彼らが行った施策により、宋では農業、手工業が著しく発展し、商業活動、国際貿易が盛んになったんだな。

この大陸の変化が日本にも及んだわけだ。これまで貿易は、唐の滅亡以降、那の津(なのつ、福岡市)の鴻臚館(こうろかん)で渤海国を相手に官営で行われるのが中心で、自由な貿易は禁じられていた。渤海国が滅んだ以降は、日本はいずれの国とも正式な国交を結ぼうとせず、孤立政策をとっていたんだ。

にもかかわらず、貴族や地方の土豪の輸入品へのあこがれは高まるばかりだったんだ。11世紀中ごろに、藤原明衡(あきひら)が著した『新猿楽記(しんさるがくき)』は、平安京にあふれる商品を「本朝」と「唐物」に分けて紹介している。

「唐物」では麝香(じゃこう)・丁子(ちょうじ)などの香料や、白壇・紫壇などの高級建材、蘇芳(すほう)・丹(に)などの染料、豹虎の皮・犀(さい)の角・瑪瑙(めのう)の帯・瑠璃(るり)の壷などの貴重品、綾(あや)・錦・羅(ら)などの高級織物の名前が挙がっている。ことに人気だったのが江南の青磁(せいじ)で、越州(えっしゅう)青磁として尊ばれた。

貿易は国が独占していたものだったけど、人気の商品を持っている宋や高麗の貿易商人にしてみれば、いろんな人が集まるところで、高値を付けた人に売った方が断然もうかるよね。そこで、新たな貿易の仕組みが現れてきた。典型的な例では、福岡市の那珂川河口に、大宰府にある安楽寺の博多荘という荘園が成立し、不輸不入の権を利用して始めた、活発な貿易があるね。

不輸不入の権とは、貴族や寺社に寄進された荘園が、国家に税を払わず、役人の介入を拒否する権利だったね。主に農地に適用されてきたけれど、これを商業地に応用したわけだな。博多荘には11世紀の終わりごろから、中国人街が形成されはじめている。

こうして荘園を市場化する貿易システムができると、宋の商人はたくさんの寺社や貴族と結び付いていく。そして筥崎宮(はこざきのみや)や香椎宮(かしいのみや)の神域、仁和寺の荘園の怡土荘(いとそう)の今津港、肥前の平戸、法皇が所有する有明海沿岸の神崎荘、薩摩の坊津(ぼうのつ)など、九州の沿岸の各地で貿易が行われはじめた。そこはアジア諸国の人々が居住する国際都市になってきたんだな。

そんな中、12世紀になると、またアジアに激震が走ったんだ。1115年、契丹に服従していた女真族(じょしんぞく)が契丹の大軍を破って、金王朝を建てた。金は最初は宋と組んだけれど、契丹が滅ぶと、今度は宋を攻撃し、首都の東京(とうけい)を占領したんだ。こうして宋朝は断絶したけれど、残された王族が南京(なんきん)で即位して高宗となって、宋王朝が再興された。これが南宋なんだ。

この大陸情勢の変化は、日宋貿易をさらに拡大したんだな。南宋は、金の攻撃をさけるために、多額の弁済金を金に払わなくてはならなかった。セイゴオ先生が言ったように宋にとっては日本の黄金や真珠、水銀や刀剣などが貴重な収入になったんだ。それに日本は南宋が貿易できる数少ない中立国でもあったからね。

ここに登場したのが平氏だったわけだ。伊勢平氏の平正衡の子、平正盛は海賊の追討(ついとう)で名をあげ、その子の忠盛(ただもり)は、伊勢湾や瀬戸内海、九州など海上交通の要衝をおさえ、「海の領主」、「海の武士団」、そして西海の「海賊集団」まで配下に組み込んでいったんだな。正盛も忠盛もともに白河法皇の北面の武士を務めた。この皇室とのつながりは平氏の経済拡大に大きな契機となった。

平忠盛はその後、鳥羽法皇の院近臣となったんだ。国際貿易の利益に目をつけた忠盛は、法皇が管理する佐賀県の神崎荘の荘官も勤めた。1133年に宋船が神崎荘に入港したとき、慣例に従って商品を管理しようとした大宰府の長官に対して、忠盛は荘園の権利を主張して、「船は神崎荘に入ったから、商品は神崎荘で扱う」と突っぱねている。このような利益を法皇にもたらすことで、忠盛は武士出身でありながら、昇殿を許されるまでに出世したんだ。

この平忠盛の方法を引き継いで、日宋貿易を強力に推し進め、海に囲まれた日本を貿易立国にしていこうと考えた若き青年が、平清盛だったというわけなんだな。


奥州藤原氏の北方平和戦略

2004年11月08日 | 歴史
白河天皇が上皇となって、院政を開始した1086年の翌年、東北地方で奥州藤原氏の独立政権が誕生した。これは蝦夷の民にとっても念願の政権であり、ここから1世紀に及ぶ藤原氏4代の栄華を築かれることになった。名門藤原氏の名に由来しつつ、独自の花を開かせた地域政権、奥州藤原氏とは、いったいどんな一族だったんだろうか?

奈良時代に始まる藤原四家のように、時代が下るにつれ、藤原氏はいろんな家系に分かれていったんだったね。その中に、藤原北家の出身ながら、桓武天皇が粛清した氷川皇子の事件に巻き込まれて地方に流された藤原魚名(うおな)という家臣がいたんだ。魚名の子孫は北関東に入植して、魚名流(魚名の子孫)といわれる多くの武士団を形成していった。平将門の乱のとき、将門と戦った剛勇、藤原秀郷(ひでさと)もそこから出た武士だ。この関東藤原氏は、源氏が東国の武士団を統合していったとき、その傘下に加わったんだ。

1051年、前九年の役がおこると、関東の武士団は源頼義に従って東北地方の制圧に乗り出した。このとき藤原経清(つねきよ)という、関東藤原氏の流れをくむ武者が、戦いの最中に源氏の戦線から離れ、俘囚を率いる敵の安倍頼時(あべのよりとき)の娘と結婚したんだ。この経清が奥州藤原氏の始まりとなるんだな。

安倍氏は源氏の軍勢と互角に戦ったけれど、秋田県を制圧していた清原氏が源氏と組んだために敗北してしまった。参謀として源氏軍を苦しめた藤原経清も斬首されたんだ。このとき、清原氏のトップ、清原武則は蝦夷人(えぞびと)として、初めて鎮守府将軍の位につき、東北地方を治めたんだな。

そして、藤原経清の遺児、藤原清衡(きよひら)は、母が清原武則の嫡男・武貞(たけさだ)と再婚したため一命を助けられ、清原氏に養われていた。しかし、清原氏の家督争いがおこり、八幡太郎義家が乗り出してきた。これが後三年の役だね。藤原清衡は義家と組んで、清原氏を滅ぼすことに成功する。

白河上皇は源氏が東北地方を支配するのを嫌って、安倍氏、清原氏の領地の経営を藤原清衡にまかせ、事実上の独立を許したんだな。清衡は、岩手県の平泉に京都に似せた都をつくり、奥州藤原氏4代の栄華の基礎を築いた。でもどうして奥州が繁栄できたか、わかるかな? 東北は金や馬、さらに鉄器の産地であることに加え、以前も話したように中国北方から北海道を経由する北方貿易がますます拡大していたからなんだ。

もっとも、奥州藤原氏は完全な独立を果たしたわけではなかった。院庁が奥州藤原氏に北方社会との外交、軍事、貿易などの権限を認め、東北全体に対しては、軍事の指揮権、警察権などを与えたけれど、その見返りとして、東北地方が生み出す租税を直接、院庁に納めさせたんだ。これは東北地方の戦乱に悩まされてきた政府にとっては、理想的な解決策でもあった。

これに乗ることで奥州藤原氏の軍事的な権威はものすごく高まったけれど、藤原清衡は徹底した平和政策を展開するんだな。国府・院庁への租税義務を守り、黄金や馬を納め、院政に従う姿勢を崩さなかった。さらに院庁の有力者には豪勢な贈り物をして交友関係を結んだ。これは源氏や平氏などの武士団の挑発を恐れ、悲惨な奥羽の動乱の再発を防ぐ清衡の平和戦略でもあったんだな。

平和な社会では、戦乱の時とは比べものにならないほど多くの富を蓄積し、経済力を増やすことができるね。清衡はこの富を文化に使った。首都平泉を華やかな文化都市にしていったんだ。極楽浄土を現し、平安末期の美術工芸の極致といわれる金色の中尊寺の造立をはじめ、造園や金字一切経の写経などの文化事業が強力に推進されていった。

舞台となった平泉は、実は奥州藤原氏の領地の奥六郡を一歩越えた陸奥国府が支配する公領の土地に建設されていんだ。どうしてそんなところに奥羽政権の都を造ったんだろうか? それは院政にとって重要な北方の平和を、朝廷と奥州藤原氏が共同でつくり出していることのシンボルとするためだったんだな。

この清衡の姿勢は、二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)にも継承されていく。京都の貴族と姻戚関係を結ぶ一方で、朝廷の安泰を願う平泉の文化事業は、院政政権から高い評価を受けている。こうした努力によって、三代藤原秀衡は陸奥守と鎮守府将軍に任じられ、その地位をますます高めた。まさに奥州藤原氏の平和志向は戦略的に成功したんだな。

こうして100年におよぶ平泉文化は、乱れていく日本にあって北方の平和を支え、京都の貴族の雅びを北の大地に根づかせたといえるわけだ。しかし、時代の大きな流れには逆らえない。4代泰衡(やすひら)の時代、武者(つわもの)による鎌倉幕府が成立し、院政の権威が失われたとき、北の京都、奥州藤原文化も滅びへの運命を迎えていったというわけなんだな。



「治天の君」が繰り返した熊野詣のナゾ

2004年11月05日 | 歴史
今年7月7日、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、「熊野三山」「吉野・大峯」「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」など3つの参詣道が世界遺産に登録された。神秘の威容に満ちた紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていて、仏教が入ってからも山岳修行の場となり、空海は高野山を修行道場として開いたんだったね。平安時代には山また山の連なる秘境だったこの地、とくに今の和歌山の奥深い熊野を9回も訪れた新しいタイプの実力者がいた。それが絶大な力を誇った「治天の君」、白河法皇(白河上皇)その人なんだ。

白河上皇の前にも、皇族では、密教に熱心だった宇多法皇、藤原摂関家に無理やり退位させられ、仏道修行にはげんだ花山法皇が訪れたことがある。これらは山岳に修行する僧りょとして熊野に詣でていたんだ。しかし、それからおよそ100年たった後、1090年にはじまった白河上皇の熊野詣は、まったく規模が違っていた。それは王法と仏法を統合して日本を治めようとした政策の現われでもあったんだな。

白河上皇のあと、院政を継ぐ上皇たちも熊野詣を繰り返した。白河上皇の9回のうち、最後の3回は鳥羽上皇を引き連れての御幸(ぎょこう)だった。その後、鳥羽上皇は21回、そのあとを継いだ後白河上皇にいたっては、なんと34回も熊野に詣でている。

でも、いったいなぜ熊野だったのかな? 白河上皇の時代の関白・藤原忠実(ただざね)は「毎年の御熊野詣(おんくまのもうで)、実に不思議なことなり」と言っているほどで、その理由ははっきりしないんだけれど、今回はそのナゾに大胆に迫ってみよう。

まず第1のポイントは、上皇、法皇だったからこそ熊野詣ができたということ。このころの天皇は、遠出の旅などできなかった。天皇は朝起きて夜寝るまで、しきたりに規制され、自由な行動は許されなかったんだな。ところが上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持っていれば、上皇が律令によって規定された地位ではないだけに、自由にふるまうことができた。だから、熊野のようなところに参詣できたんだ。

第2に、院政が目指していたのが、ばらばらに分かれはじめた日本の諸勢力を統合することにある。白河上皇は、皇室の権力を藤原摂関家の補佐なしに確立するため、多くの荘園を手に入れる方策を立てた。中級貴族の受領層の支持を取り付けて、地方を直接支配する一方、セイゴオ先生が言ったように院の御所に北面の武士を置き、院の権力を強化した。これらの経済・地域・軍事の統合によって、白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせず、意のままに政治を行うことができたんだ。加えて寺院や神社に参詣し、宗教界への影響力も確立しようとしたわけだな。

そして、第3に、熊野三山が白河上皇が考える新しい宗教のモデルとしてふさわしかったと考えられる。えっ、それはどうしてかって? それは当時の宗教界の様子を考えるとわかってくるんだな。

たとえば、白河天皇の時代、1081年、奈良の興福寺の僧兵が多武峰(たぶほう)の社域に侵入して乱暴をはたらき、多武峰は朝廷に訴えている。ところが興福寺は藤原政権を確立した藤原不比等が建立した寺院であり、多武峰は藤原鎌足を祀る御廟(ごびょう)で藤原不比等が整備した、これも藤原一族の聖地だ。また、比叡山延暦寺の僧兵が、比叡山のふもとの園城寺(現在の三井寺)を攻撃したため、白河天皇は源義家を派遣し、一時的に騒動を収めている。しかし、延暦寺も園城寺も、ともに皇室を守る天台密教の拠点だったんだな。

これはつまりどういうことかというと、これまで皇室や藤原氏が、広大な荘園を与えたり、多くの優遇処置をしてきた仏閣や大社同士が、お互いの近い関係や連帯を忘れ、それぞれが荘園や利権を奪い合い、僧兵や神兵で戦い合うようになってきていた、ということなんだ。

つまり白河天皇は上皇となったとき、武力集団となった宗教界も治めなくてはならなかったわけだ。しかし、セイゴオ先生が言ったように、治天の君といえども「サイコロの目と鴨川の水と山法師」は、思い通りにはならない。そこで、白河上皇は、有名ではあったけれども辺鄙なために詣でる人も少なく、険しい土地なので荘園も少ない熊野三山を、宗教界にみずからの権力を見せつけるために整備しようとした、とも考えられるわけだ。

もちろん、熊野三山とよばれた熊野本宮、速玉(はやたま)大社、那智(なち)大社は、それぞれが仏教の阿弥陀如来、薬師如来、千手観音が日本の神となって現れた、とされていたことも白河上皇の心を動かした。阿弥陀如来は来世の往生、薬師如来は現世の利益、千手観音は仏法を信じる者を千本の手で救済する菩薩の中の菩薩だからね。これは天皇でもなく、貴族でもない「治天の君」の主権を守る神仏としてふさわしかった。

白河上皇は、最初の熊野御幸で、熊野三山の体制を整えた。まず、道案内に大乗仏教、密教、修験道(しゅげんどう)の3つの宗派に通じた高僧、増誉(ぞうよ)を任命している。増誉は初代の熊野三山を統括する最高位の役職、熊野三山検校(けんぎょう)に任じられたんだ。これは京都にあって、上皇や法皇が熊野に詣でるときの準備を請け負う職だ。この増誉という人選には、当時の分裂した宗教界を統合する新しい仕組みを作り出そうとした、白河上皇の意気込みがあったんだな。

さらに現地で古くから熊野三山を管理していた熊野別当(くまののべっとう)に、法橋(ほっきょう)という地位を与えた。こうして、正式に朝廷から認められた熊野別当の権威は高まり、別々に自立していた熊野三山の統合がはかられていった。また、白河上皇は熊野三山に紀伊国の100町以上の田畑を寄進している。地形的に農地に恵まれない熊野三山は、これによって財政的な基盤を確保することができたんだ。

このような「治天の君」が、貴族や武家の豪華な行列を引き連れて、熊野の神のご託宣を聞きにいく熊野詣によって、宿泊施設や参詣の道である熊野古道が整備されていった。こうして熊野三山は、まさに院政を守る神であり、仏となったわけだ。この朝廷の盛んな熊野信仰は、やがて全国各地の武士や庶民の間にも広まり、「蟻の熊野詣」と呼ばれたほどたくさんの人々が熊野にあつまるようになる。熊野古道など紀伊の参詣道が世界遺産に含まれたのは、そういった中世の人々が紀伊の自然に残した文化的な景観が、地球的にも貴重な存在だと評価されているからなんだな。