何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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内紛だらけの源氏一族の歴史

2004年11月25日 | 歴史
西海を根拠地に海洋国家をめざした平氏と、東国の農耕地を確保して騎馬軍団を組んだ源氏はいよいよ対決の時を迎えた。そこにはセイゴオ先生が言ったように源頼朝、平氏、源義仲と3つの力のバランスを考えた、後白河法皇のパワーポリティクスがあったんだ。でも、頼朝と義仲はもともと従兄弟の関係なんだ。なぜ義仲は、長野県の山深い木曽から立ち上がり、頼朝とも対決したんだろうか?

実は源氏軍団の歴史というものは、一族の中の覇権争いを繰り返した、悲劇の歴史だったといえる。源氏はそこから不死鳥のようによみがえっていくんだけれど、ここでは、ちょっと長いけれど、歴史の授業ではあまり語られない、八幡太郎源義家のあとの源氏の歴史を語ってみよう。

また、ぜひ、これから出てくる名前をメモして、話通りに線を引いてほしい。すると頼朝に至る源氏の系図の一部が出来上がってくる。これを歴史の本に出てくる源氏全体の系図と合わせてみると、あっというまに名前と関係が、強烈に頭に入ること、請け合いだ。うんちくをひと手間掛けると、ちゃんと勉強に役立つってわけだな。

さて、八幡太郎義家の後を継いで、源氏の総帥となった子の源義親(よしちか)は、対馬守(つしまのかみ)となったが、大宰府を拠点にして、九州の武士団を源氏のもとに統率しようとしたんだ。そこで逆らう者を攻撃したことが朝廷への反乱とみなされ、島根県の隠岐島に流されてしまう。しかし、義親は隠岐島を脱出し、武者を率いて西海を暴れまわった。1108年、この義親を追討したのが清盛の祖父、平正盛(まさもり)で、平氏が西海を押さえるきっかけになったんだったね。

これで源氏の軍団は統率を失い、ばらばらになってしまった。その上、翌1109年、次に源氏の総領を継いだ義親の弟、源義忠(よしただ)が何者かに暗殺されるという事件がおこった。その暗殺の疑いが、八幡太郎義家の弟の源義綱にかかったんだ。義綱は佐渡に流されたところを、義親の子で、叔父の義忠の養子となっていた源為義(ためよし)の追討を受け、1134年に自害してしまう。こうして、源為義が源氏の総領を継いだわけだ。しかし、為義は平家の全盛期を築いた平清盛に押されて、京都では威勢をふるわなかった。

その源為義の子に義朝(よしとも)、義賢(よしかた)、頼賢(よりかた)、為朝(ためとも)らがいる。彼らが源平の争乱の序曲をつくっていくんだな。

父為義は源氏の根拠地、関東の武士団の統合を目指していた。そこで長男の義朝を幼少時から鎌倉におき、次男の義賢を武蔵国に派遣したんだ。ところが、1155年、源氏はまたもや血なまぐさい主導権争いを繰り返してしまう。

この年、京都に義朝が出仕していた間、わずか15歳で鎌倉の守備をまかされた、義朝の長男・源義平(よしひら)が、武蔵大蔵館で叔父に当たる源義賢を襲撃し、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平はちまたで悪源太(あくげんた)と呼ばれるようになる。「悪」には、わるいって意味だけじゃなくて、強く、恐ろしい、常識破りの意味があるんだな。

義平が叔父義賢を殺してしまったわけは、父の義朝とともに関東を統一するためには、義賢の勢力が邪魔だったからなんだ。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて脱出し、信濃(長野県)の豪族に養育された。この駒王丸が成長して、のちに木曽義仲(源義仲)と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がってくるわけだ。

このころ源氏の総領を継ぐ存在となっていたのは、為義の4男・源頼賢だった。父とともに都で藤原頼長に仕え、寺院や神社の強訴の鎮圧で武名を上げていたんだ。そこへ義賢が甥によって討ち死にした、という知らせが来ると、関東の源氏の統制のために東国に下った。しかし、その軍勢が行軍中に鳥羽法皇の荘園といざこざを起こしてしまう。すると、すかさず法皇は頼賢追討を兄の義朝に命じた。

頼賢は、法皇の下で優位に立った義朝に敗れてしまった。もちろん、そこには源氏の力を弱めようとする法皇の政略がからんでいたんだな。ここに源氏の総領の後継ぎは源義朝しかいなくなったんだ。義朝は関東武士団の統合に乗り出し、武士団と主従関係を結び、従わない勢力を武力で滅ぼしていった。

一方、同じ1155年に、九州にいたもう一人の源氏の英雄が騒動を起こした。為義の8番目の息子で、『弓張月』(ゆみはりづき)で有名な、鎮西八郎源為朝だ。弓の達人で、剛勇の名をほしいままにした為朝は、平家や北面の武士とのいざこざがたえず、九州の阿蘇の豪族のもとにあずけられていたんだ。その為朝が九州の武士団の統合に乗り出したんだな。あだなである鎮西八郎は、西を鎮める源氏の8男、という意味だ。しかし、政府は大宰府を通して為朝に従わないよう武士団に命令。さらにこれが原因となって、父の為義は官位を剥奪されてしまう。

そのため、翌1156年に、源為朝は父に代わって罪に服そうと、九州から上洛してきた。そこに、保元の乱がおこったんだな。このとき、源義朝が父の為義に背いて、清盛とともに後白河天皇方につき、父をはじめ、崇徳上皇方の源氏一族を無残な死に追いやることになる。この源氏分裂の背景には、一族が繰り広げたこれまでの覇権争いが原因となっていたわけだ。父為義とともに上皇方について奮戦した源為朝は、伊豆の大島に流されていった。

しかし、続く平治の乱で、今度は清盛を敵に回した源義朝は敗れ、関東に逃げる途中、暗殺されたんだ。父を殺された悪源太こと義平は清盛を付けねらうが、捕らえられて死罪となった。このとき義平の弟で、義朝の3男である源頼朝は殺されず、伊豆に流された。しかし、源氏はもはや再起不能かと思われたんだな。

それから20年たった1180年、セイゴオ先生が教えてくれたように、以仁王(もちひとおう)の平家追討の宣旨が、伊豆の源頼朝、信濃の源義仲のもとに届いた。同じ源氏とはいえ、これまで見てきたように、二人はもともと敵対する因縁を抱えていたんだ。だからこそ義仲は、どうしても頼朝より先に京都を制圧して、まだ決まっていなかった源氏の総領、武家の棟梁の地位を自分のものとしたかったわけなんだな。



1761 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2004-12-30 15:06:41
しね
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Unknown (Unknown)
2005-02-17 20:07:41
4回読んでやっとわかりました!
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Unknown (Unknown)
2005-03-02 13:14:09
おもしろかった。
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Unknown (Unknown)
2005-10-03 16:56:12
よくわかった。ところでこの掲示板にしねってかいたやつだれだ!
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Unknown (Unknown)
2006-06-27 16:27:03
今年受験生です!



教科書にのってないことがかいてあって面白かったです!またみますよ~
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名前 (ハットリくん)
2007-05-10 20:59:40
藤原南家と継がる女に生まれた男子に義がなくて、
身分の低い常盤との子に義を付けた理由がわかりません。このことが義経に対する頼朝の対応になった
のではないかと思います。まさか義朝の子ではなかったのでは、清盛が頼朝を処刑しなかったのではなくて、できなかった。藤原は朝廷と血縁を絶えず持っていたから。
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Unknown (とまと)
2010-08-14 09:30:05
楽しく読ませていただきました。
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Unknown (にっき)
2010-12-14 00:38:05
よくわかりました!
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Unknown (のんびり屋)
2011-04-08 07:33:25
源義平のことはあまり知りませんでした。
興味深く読みましたよ。
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いつの世も (れい)
2011-05-28 17:39:29
こういう一族も困ったもんですね。
今の世の中もそうだけど。
ありがとう、です。
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