松何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ
このブログはセイゴオ先生の歴史教室「にっぽんXYZ」ブログと並行して展開します。両方同時にお楽しみください。 もちろんおさわがせの7人娘「なにわセブンローズ」もご一緒します。みなさんの質問にもタカハシ君が答えてくれるかも…。
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鴨長明が『方丈記』を完成したのは、1212年、鎌倉幕府が成立してから、およそ20年後のことだったんだ。長明は、12世紀の世紀末の貴族の世から武家の世へと転換する大動乱の時期を生きたわけだな。しかし、その人生は、挫折に次ぐ挫折だったんだ。その間に、院政が強力な権勢と豊かな財政によって築きあげたきらびやかな京都の市街も、大火、地震、戦乱によって、すべて灰燼(かいじん)に帰してしまった。そうした中で書き上げられた『方丈記』は、実は日本人の新しいライフスタイルを提案していたんだな。今回は鴨長明の人生の出発から話してみよう。

そもそも、長明の人生は挫折にはじまったといっていい。セイゴオ先生が教えてくれたように、京都の下鴨神社のトップの家柄に生まれ、幼少のころから才気をあらわし、保元の乱のときの二条天皇の中宮(後の高松院)にかわいがられ、応保元年(1161)、7歳にして中宮から昇殿が許される従五位下の位を与えられた。長明は一種の天才少年だったわけだな。

長明は弟に神社をまかせ、宮廷での将来は約束されているように見えたけれど、二条天皇は親政をめざして後白河法皇と対立してしまう。そして、まだ23歳の青年だった二条天皇は、とつぜん病死してしまい、長明は出世の望みを絶たれたんだ。そこで、和歌や琵琶の道に打ち込んで、人生を切り開こうとしたけれど、最大のパトロンであった高松院も、1176年に亡くなってしまった。この前後から、京都の崩壊がはじまったんだ。

『方丈記』の「ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」は、深い無常の哲学をあらわしている一方で、同じような人間の社会が続いているようでも、昨日と今日ではまったくちがってしまうという、リアルな現実の変化をふまえていたんだな。

『方丈記』がこの世のはかなさを表すために記した平安京の5つの災害と事件はいずれも、長明が20代後半のころにおこった出来事だった。これらの天変地異と平行して、源平の争乱がはじまった。『方丈記』は災害の一つをこう記している。
「その中の人、現(うつ)し心あらむや。或(あるい)は煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或は焔(ほのお)にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、から(ろ)うじて逃るるも、資財を取り出(い)づるに及ばず。七珍万宝さながら灰燼(かいじん)となりにき」。

「現し心」とは「現実感」のことだな。燃えさかる火の中の人は、生きているという現実感も失い、倒れていき、やっと逃れても、蓄えた財産などを持ち出す余裕はなかったというわけだ。

こうした首都壊滅を若き日に体験した鴨長明は、「無常」を深く心に刻みこまれたんだな。そして、この天変地異の中で、財産や地位といったものがいかにはかないものかを実感したんだ。国家の権力を誇示していた大極殿や官庁も、たった一夜で焼失してしまい、白河殿も地震の一揺れで倒れてしまう。

そんな立派な住居や財産、地位に価値の基準を置いて人生を設計し、あたふたと権力者にこびへつらったところで、何になるだろうか? それは、実はとても危険で、人間を不幸のどん底におとしかねない。むしろ人間は、みすからの好みを実現するために、最低限の条件を整えて、自立して生きるべきではないのか? このような疑問に答えて、考え出されたライフスタイルが、「方丈の住まい」での生き方だったんだな。

この方丈の住まいは、貴族の寝殿造りのような儀礼や祭りを中心した住まいや、職業によってかたち作られた農民や職人の住まいなどとはまったくちがっていたんだ。それは、人間がただ一人で、浄土への往生を願いながら、文学や音楽、花鳥風月に遊んで生きられる空間だったわけだ。この『方丈記』が提案した、新しいライフスタイルのモデルは、身分を問わず日本人の間に侵透していき、現代人もそこに日本らしさを感じている清廉な和風のたたずまいというものを作り出していったんだな。

【お知らせ】セイゴオ先生のにっぽんXYZの休載とともに、タカハシ君のうんちく日本史も今回でしばらくお休みをいただきます。たくさんのご意見をいただき、ありがとうございました。


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佐藤義清は、出家遁世(とんせい、とんぜ)して西行となっていく。では、遁世とは一体、どういうことだったんだろうか?

「遁世」の「遁」というのは、忍者の「火遁の術」、「水遁の術」の「遁」で、「逃げる」という意味だ。忍者が火や水を使って、敵の目をくらまして遁(に)げるのが、火遁、水遁だな。「遁世」というのは、「世を遁げる」ということで、もともとはシャカ族の王子であった釈迦が、カピラ城を出て出家したことを、「遁世」といったんだ。あるいは、中国の道教の祖、老子は乱世を嫌って、函谷関(かんこくかん)を出て、遠く西方に去ったという。これも「遁世」というんだな。つまり、社会のしがらみを断って、その外に出ることが遁世だった。

それなら、出家してお坊さんになったら、「遁世」なのかとうことになるね。ところが、平安時代には、たとえ出家しても遁世したことにはならなかった。なぜかって? 平安時代の寺院は、みんな国家の許可によって成立していたんだな。それによって、荘園を獲得し、巨大な荘園領主にもなっていたんだ。いわば、宗教界は、官界に付属するもう1つの俗世間となっていたんだな。

こうした寺院の僧侶も、国家から官位をもらった官僧(かんそう)で、現在の公務員の仕事の規定があるように、さまざまな規定にしばられていたんだな。いってみれば、決められた修行や祈祷、国家的な行事への参加などが仕事で、もはや人々の救済といったボランティアな活動は規制によってできなくなっていたんだんだな。

それで、比叡山や高野山、興福寺などから、官僧の身分を棄てて、自由な救済活動に向かう僧侶たちがぞくぞくと現れてきた。前に話した空也上人なんかは、そのさきがけだね。こうした官僧の身分を棄てて、自由に救済活動をすることが遁世だったんだ。日本の中世の仏教は、こうした遁世した僧侶によって、新たな展開をしていくわけなんだ。

ところが、この遁世に、もう1つの流れが加わったんだ。それは、国家の官僚、あるいは武家などのうち、藤原氏の摂関政治、院政や平氏の独裁政権に失望して、国家の許可を受けずに、みずから僧侶となって、思いのままに活動する人びとが現れてきた。この自分の思いのままの好きなことをする活動が、セイゴオ先生が教えてくれた「数寄」(すき)だったんだな。この「数寄」を実践するために、遁世することを、「数寄の遁世」(すきのとんぜ)という。

数寄は時代によって、さまざまな変化するけれど、この時代の数寄は、過去の失われた崇高な情報を求めて旅をし、そこに過去に人間が体験したことを思い起こして、それを未来に託すことだったんだ。では、そのような過去の崇高な情報は、どこにあったんだろうか? そう、それは和歌に詠まれていたんだな。そして、古来、日本人が何度も訪れ、和歌を詠んだ土地がある。その風景は、屏風(びょうぶ)や襖絵(ふすまえ)に描かれ、そこには和歌が指し示すコンテンツ(情報の内容)が積み重なって保存されていたわけだ。これが、「歌枕」だな。

しかし、この歌枕は屏風や襖絵に描かれたけれども、その地を訪れる人は、長らくいなかったんだ。そこで、この乱れに乱れた世の中から出て、遁世して数寄に遊ぼうとした人たちは、こうした歌枕を実際に訪れて、普遍的な価値を取り戻そうとしたわけだな。

こういう数寄の遁世の先達とされているのが、能因(のういん)法師なんだ。能因は10世紀末、11世紀の初めを生きた人で、遠江(とおとおみ、静岡県)、肥後(ひご、熊本県)などの知事を務めた橘(たちばな)氏の家に生まれ、大学に学び、学問で将来を開くために文章生(もんじょうせい、歴史・文学の博士課程の学生)になったけれど、26歳のとき、とつぜん出家してしまったんだな。橘氏は奈良時代から平安時代にかけて、皇室を支えた氏族だったが、藤原摂関家の台頭によって、才能があっても、出世は望めなかった。

能因は仏教の修行などは眼中になく、ひたすらみずからの生き方を和歌に詠む日々を送り、漂泊の行脚を重ねて、歌枕の地を訪ね歩いたんだ。そして、1025年以降、2度の奥州旅行をしている。それは、まだ都人がほとんど訪れたことのない地に行って、まずみずからが和歌を詠い、将来にその心を残すとともに、都人が憧れていた陸奥の名馬を連れ帰るという交易のためでもあったという。このあたりが「数寄の遁世」の面目がさえているところだな。そして、能因は関白藤原頼道の厚遇を得て、11世紀前半の歌壇を仕切ったんだ。さらに、歌枕と和歌につての初めての歌論『能因歌枕』を編集している。これが、歌枕の定番となった。

このような能因の数寄の道を、西行も歩もうとしたんだな。でも西行は能因よりも、一まわりも二まわりも大きかった。西行は、数寄の道に遊びながら、仏僧として修験の道にも通じ、ネットワークを駆使して、日本仏教の根幹をなす高野山や東大寺の復興などにも大きな働きを示したんだからね。そして、セイゴオ先生がいうように、悲惨な最後を遂げた人びとの鎮魂(ちんこん)の和歌を詠んだ。このような西行の数寄と漂泊の精神は、日本各地にその歌碑(かひ=歌を刻んだ碑)が残されているように、現代にいたるまで愛されつづけているんだな。


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西行は、もとは佐藤義清(のりきよ)といって、院庁(いんのちょう)の北面に控え、上皇・法皇やその寵愛を受ける女院を警備し、熊野詣などの御幸(ぎょこう)などでは、威儀を正して行列を構成したんだな。この北面の武士は、11世紀の終わりに、白河法皇が院政を開始したときに設置されたんだ。

もともと、皇族を警備するのは近衛(このえ)の兵だった。近衛兵は上皇、法皇も含む皇居を守る軍隊だったけれど、天皇を退位した後にも実権を握る院庁を守る軍隊はなかったんだ。そこで、御随身所(みずしどころ)や武者所(むさどころ)を設置したけれど、白河上皇は満足しなかった。なぜかって? この武者というのは、近衛兵と同じく、律令に定められた武官によって構成されていたんだな。かなり高い官位を継承し、武芸にはげんでいたけれど、戦ったことはめったになかった。これは地方の開拓領主の出身で、命がけで領地を守ってきた武士に比べれば、ものの数にも入らなかったんだな。

それで、院庁の庶務を担当する院司(いんじ)に仕えるかたちで、地方領主出身の武士を近習などに登用したところ、優れた才能を発揮するものが多かった。そこで軍事・警察に関わる組織を統合して、北面の武士としたわけだ。この北面の武士は、朝廷の武官で位が高い「上北面」(じょうほくめん)と地方豪族出身で位の低い「下北面」にわかれていった。そして、戦闘の実力者ぞろいの「下北面」(かほくめん)が北面の武士を代表するようになっていたんだ。

この北面の武士は、セイゴオ先生も言うように、たいへんなエリートコースだった。というのは、地方の開拓領主はどんなに土地や財産があっても、朝廷から官位をえることはできなかった。官位なんかなくてもいいじゃないかとも思うけれど、官位がないということは、国政に発言できないということでもあった。だから、政府への発言権をもつ官位をえて、院のそばに仕える武士は、地方に帰ると実力者として、武士団のトップに立ったわけだ。

それに、内裏に勤める武官は家柄が重視されたけれど、院庁では厳格な規定がなかったし、院は天皇を次々に指名するような権力者で、天皇に命令して、どんな官位でも与えることができた。上皇や法皇に愛された女院も「給」(きゅう)という官職を任命する権限があった。それで、開拓領主たちは院や女院に領地を荘園として寄進し、みずからは荘園の管理者となって、有能な子弟に郎党を付けて、北面の武士として仕えさせ、官位を与えられるよう期待したんだな。

こうした北面の武士が目指した官位は、「五位」(ごい)の位だったんだ。五位以上は、法皇や天皇の前に参列できる殿上人(てんじょうびと)で、「大夫」(たいふ)呼ばれ、それ以下は「地下」(じげ)と言われたんだ。でも、こういう官位はそうやすやすとは手に入らなかった。

郎党を引き連れて、院の北面の武士となること自体、開拓領主の中でも財力ある特別な子弟にのみ許された。というのも、官位を得るには「三位」(さんみ)以上の公卿(くぎょう)の推薦も必要だったから、そこに付け届けをする。そして、国家的な事業に対して莫大な寄進をしなくてはならなかった。これを「成功」(じょうごう)というんだな。この「成功」によって、院政時代の壮麗な六勝寺や鳥羽殿、三十三間堂などの施設や寺院が築かれた。そして貴族の仲間入りをするために、和歌や笛・鼓などの楽器なども習ったんだ。これは大変な投資で、官位を得ることは、莫大な金銭をはたいて買うことでもあったんだな。

佐藤義清も、18歳のとき、佐藤一族の「成功」によって、宮城の門を守る役職、六位に相当する兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。佐藤家は東海、近畿、伊勢にわたって領地をもつ富裕な地方豪族で、義清は主家の徳大寺家の推挙もあって、五位以上の位を目指して、鳥羽法皇の北面の武士として仕えたんだ。その肩には、一族の期待が重くのしかかっていた。

徳大寺家は藤原道長の叔父、公季(きみすえ)から分かれた家系で、院政時代に法皇の信頼をえて、その家運は上昇していた。佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は鳥羽法皇の妃、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の兄であり、璋子に仕えた佐藤義清の前途は洋々と開けているように思れたが、1140年10月、23歳のとき、とつぜん出家してしまう。そのわけははっきりしないけれど、主家の徳大寺家がたどった政略の日々を見ると、義清が感じた武家の運命への予感が的中していたんだな。

佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は、保元の乱に後白河天皇を補佐し、その政権を支えた。このとき、北面の武士の同僚、平清盛と源義朝が戦い、勝った平家は五位どころか、三位以上の公卿を独占。しかし、清盛亡き後、平家は源(木曽)義仲の台頭によって、西海に落ちていった。そして、徳大寺家をついだ実定(さねさだ)は、木曽義仲に憎まれて官位を奪われたが、源義経が義仲を滅ぼすと、院政の中枢に活躍。その後、源頼朝とのパイプ役をにない、平家を追討した源義経を謀叛人として鎌倉方と講和政策を進め、左大臣となったんだ。

こうした変転する世の中に、佐藤義清が徳大寺家の私兵として止まっていたら、たとえ一時の栄華をえても、おそらく大きな挫折にみまわれたにちがいない。義清は、西行となることで、このようなむごい現世を離れ、数寄の道を歩み始め、やがて武士としては得られなかった世界の新たな美しさ、新しい価値観を見いだしていったんだな。



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源平の戦いの当初は、源氏の総領、武家の棟梁の地位を確保しようとした、源頼朝と源(木曽)義仲の争いがあった。木曽義仲は、信濃に自前の軍勢を揃えていたが、流罪人の源頼朝はゼロから出発しなくてはならなかった。これが二人の政策を大きく分けたんだ。義仲は武力で朝廷を押さえようとしたけれど、頼朝は関東の武士たちを集め、これまでの日本になかった新政府の構想を打ち出し、賛同を得るしかなかったんだな。その新政府は、1180年の源頼朝の挙兵から鎌倉に入るまでの2ヵ月間の奇跡によって形成された。じゃ、今回はヴィヴィッドな日めくり式で、頼朝が自立に向けて過ごした波乱の日々を見ていこう。

8月11日、頼朝は兵を挙げ、平家の伊豆の目代(もくだい=京都にいる国司の代理人)、山木判官(やまきのはんがん)の館を攻めて、判官を討ち取った。この情報はたちまち関東に知れわたり、頼朝捕縛の命令が出された。このとき、頼朝に付き従ったのは伊豆の各地の志願兵わずか300人にすぎなかったんだ。

8月23日、頼朝勢は石橋山に陣を張る。三浦半島の豪族、三浦氏が頼朝の救援に向かうが、夜に豪雨となり、三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れなかった。後方から伊東祐親(すけちか)の追っ手が迫り、前方に大庭景親(おおばかげちか)の軍勢が待ち受けた。景親は三浦勢が参戦しては面倒と攻撃を仕掛け、明け方、頼朝軍は総くずれとなり、ちりぢりに逃走。これが石橋山の合戦だ。敗走する頼朝に従ったのはわずか6人。箱根に落ち延びる途中、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が洞窟に隠れた頼朝を助けたんだ。

8月24日、頼朝は箱根権現に保護された。それにしても、なぜ平家側に頼朝を助ける武士がいたり、箱根権現が頼朝を保護したんだろうか? 国司や目代は開拓領主の武士の領地を奪い、勝手な税金をかけたんだ。ことに山木判官は平家の権勢を笠に着て悪事が多く、山木館の襲撃は頼朝の政治表明でもあったんだ。そして箱根権現のような神社も、法皇の荘園整理などの政策に反対していたから、頼朝に期待して保護したんだな。

8月26日、武蔵の有力武士団である畠山・河越・江戸氏が、頼朝に味方する三浦氏を攻撃。当主の三浦義明は戦死してしまった。船で逃れた三浦一族は、海上で安房(千葉県)に向かう北条時政の軍船に出会って合流したんだな。

8月28日、箱根を出た頼朝一行は船で相模湾を横切り、翌日、安房に着き、北条時政や三浦一族と落ち合った。

9月1日、この日から、頼朝は関東の豪族に加勢するよう手紙を書きつづけた。大豪族、上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らには使者を派遣し、兵を率いて参加するよう説得。この和田義盛は外交・軍事に通じ、鎌倉幕府の骨格をつくっていくことになる。

9月13日、頼朝は安房を出て、上総(かずさ=千葉県北部)に向かう。千葉介常胤が上総の目代を討ち取って頼朝軍に加わりたいと伝えてきた。頼朝は許可を与え、常胤勢は目代の館を襲ってその首をとった。これは源氏の棟梁の命令で敵を倒したら、その土地や財産を恩賞とすることを実践によって示したんだ。そこで、頼朝軍が東京湾沿いに北上するうちに、つぎつぎに武士団が忠誠を誓って結集してきたんだな。

9月17日、下総(しもふさ、千葉県)の国府を制圧。千葉常胤は、このまま軍勢を増やしつづけ、源氏代々の所領、鎌倉に入るのがよいと進言する。これが新政府の首都を鎌倉とするきっかけとなったんだ。

9月19日、上総介広常が約2万の兵をひきいて国府の頼朝のもとにきた。上総介が頼朝の配下となると、頼朝軍に加わる将兵はますます増え、4万人をこえる大軍となったんだ。

9月20日、北条時政が甲斐におもむき、新羅三郎源義光の子孫の武田信義(のぶよし)に同盟をもちかけていたが、この日、頼朝が関東を制圧したことを伝える使者が到着。甲斐の源氏と頼朝軍の同盟が成立した。

9月28日、敵方の江戸氏に使者を出し、「以仁王の令旨」を守って頼朝軍に参加するよう伝える。これは三浦氏への攻撃を許し、頼朝が武蔵に入るに当たって、その妨害を除くためでもあった。

10月2日、千葉介常胤、上総介広常とともに、隅田川を渡り武蔵に入る。武蔵の武士団は、みな頼朝に従った。

10月6日、頼朝は5万人もの軍勢を従えて源氏の本拠地、鎌倉に入る。もちろん、こんな大軍を収容する建物はなかったから、全員が野営したんだ。集まった武士たちの合意によって、源頼朝を棟梁と仰ぎ、鎌倉を武家の国の首都と決定した。政府の機関として、「侍所」(さむらいどころ)が設置された。ここに関東の新政府が発足したわけだ。これは、頼朝のもとに駆けつけた武士を御家人として登録する業務から生まれたんだな。

「侍所」では、武家の棟梁と御家人の主従関係を明らかにし、実行する戦闘や行事などの部署が割り当てられ、恩賞が約束される。そのトップは別当、次席は所司で、初代別当に和田義盛、初代所司に梶原景時が就任した。職務は、御家人としての任務の判定、罪があれば処罰を決定すること、および鎌倉の治安を守り、有事のときには前線の指揮官「軍奉行」として、全軍を掌握することだった。これらの職務が独立した部署となり、鎌倉幕府の組織ができていったんだな。

と、この激変激動の2ヵ月の出来事は、日本を大転換させたんだ。関東武者たちは、それぞれが武家の棟梁の源頼朝と主従関係を結び、その御家人(ごけにん)となることで、新政府を支える「公衆」、英語で言えば「パブリック」となった。これは、公衆のすべてがいつでも自主的に武具や軍費を負担し、郎党を引き連れて、政府の軍隊を構成する軍事政権だったわけだ。初めての強力な組織である軍事政権の軍隊には、木曽義仲も平氏もとうてい太刀打ちできなかった、というわけなんだな。

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西海を根拠地に海洋国家をめざした平氏と、東国の農耕地を確保して騎馬軍団を組んだ源氏はいよいよ対決の時を迎えた。そこにはセイゴオ先生が言ったように源頼朝、平氏、源義仲と3つの力のバランスを考えた、後白河法皇のパワーポリティクスがあったんだ。でも、頼朝と義仲はもともと従兄弟の関係なんだ。なぜ義仲は、長野県の山深い木曽から立ち上がり、頼朝とも対決したんだろうか?

実は源氏軍団の歴史というものは、一族の中の覇権争いを繰り返した、悲劇の歴史だったといえる。源氏はそこから不死鳥のようによみがえっていくんだけれど、ここでは、ちょっと長いけれど、歴史の授業ではあまり語られない、八幡太郎源義家のあとの源氏の歴史を語ってみよう。

また、ぜひ、これから出てくる名前をメモして、話通りに線を引いてほしい。すると頼朝に至る源氏の系図の一部が出来上がってくる。これを歴史の本に出てくる源氏全体の系図と合わせてみると、あっというまに名前と関係が、強烈に頭に入ること、請け合いだ。うんちくをひと手間掛けると、ちゃんと勉強に役立つってわけだな。

さて、八幡太郎義家の後を継いで、源氏の総帥となった子の源義親(よしちか)は、対馬守(つしまのかみ)となったが、大宰府を拠点にして、九州の武士団を源氏のもとに統率しようとしたんだ。そこで逆らう者を攻撃したことが朝廷への反乱とみなされ、島根県の隠岐島に流されてしまう。しかし、義親は隠岐島を脱出し、武者を率いて西海を暴れまわった。1108年、この義親を追討したのが清盛の祖父、平正盛(まさもり)で、平氏が西海を押さえるきっかけになったんだったね。

これで源氏の軍団は統率を失い、ばらばらになってしまった。その上、翌1109年、次に源氏の総領を継いだ義親の弟、源義忠(よしただ)が何者かに暗殺されるという事件がおこった。その暗殺の疑いが、八幡太郎義家の弟の源義綱にかかったんだ。義綱は佐渡に流されたところを、義親の子で、叔父の義忠の養子となっていた源為義(ためよし)の追討を受け、1134年に自害してしまう。こうして、源為義が源氏の総領を継いだわけだ。しかし、為義は平家の全盛期を築いた平清盛に押されて、京都では威勢をふるわなかった。

その源為義の子に義朝(よしとも)、義賢(よしかた)、頼賢(よりかた)、為朝(ためとも)らがいる。彼らが源平の争乱の序曲をつくっていくんだな。

父為義は源氏の根拠地、関東の武士団の統合を目指していた。そこで長男の義朝を幼少時から鎌倉におき、次男の義賢を武蔵国に派遣したんだ。ところが、1155年、源氏はまたもや血なまぐさい主導権争いを繰り返してしまう。

この年、京都に義朝が出仕していた間、わずか15歳で鎌倉の守備をまかされた、義朝の長男・源義平(よしひら)が、武蔵大蔵館で叔父に当たる源義賢を襲撃し、一族を制圧してしまった。その恐るべき所業から、義平はちまたで悪源太(あくげんた)と呼ばれるようになる。「悪」には、わるいって意味だけじゃなくて、強く、恐ろしい、常識破りの意味があるんだな。

義平が叔父義賢を殺してしまったわけは、父の義朝とともに関東を統一するためには、義賢の勢力が邪魔だったからなんだ。このとき、義賢の子でまだ2歳の幼児だった駒王丸はかろうじて脱出し、信濃(長野県)の豪族に養育された。この駒王丸が成長して、のちに木曽義仲(源義仲)と名乗り、信濃の武士団を率いて立ち上がってくるわけだ。

このころ源氏の総領を継ぐ存在となっていたのは、為義の4男・源頼賢だった。父とともに都で藤原頼長に仕え、寺院や神社の強訴の鎮圧で武名を上げていたんだ。そこへ義賢が甥によって討ち死にした、という知らせが来ると、関東の源氏の統制のために東国に下った。しかし、その軍勢が行軍中に鳥羽法皇の荘園といざこざを起こしてしまう。すると、すかさず法皇は頼賢追討を兄の義朝に命じた。

頼賢は、法皇の下で優位に立った義朝に敗れてしまった。もちろん、そこには源氏の力を弱めようとする法皇の政略がからんでいたんだな。ここに源氏の総領の後継ぎは源義朝しかいなくなったんだ。義朝は関東武士団の統合に乗り出し、武士団と主従関係を結び、従わない勢力を武力で滅ぼしていった。

一方、同じ1155年に、九州にいたもう一人の源氏の英雄が騒動を起こした。為義の8番目の息子で、『弓張月』(ゆみはりづき)で有名な、鎮西八郎源為朝だ。弓の達人で、剛勇の名をほしいままにした為朝は、平家や北面の武士とのいざこざがたえず、九州の阿蘇の豪族のもとにあずけられていたんだ。その為朝が九州の武士団の統合に乗り出したんだな。あだなである鎮西八郎は、西を鎮める源氏の8男、という意味だ。しかし、政府は大宰府を通して為朝に従わないよう武士団に命令。さらにこれが原因となって、父の為義は官位を剥奪されてしまう。

そのため、翌1156年に、源為朝は父に代わって罪に服そうと、九州から上洛してきた。そこに、保元の乱がおこったんだな。このとき、源義朝が父の為義に背いて、清盛とともに後白河天皇方につき、父をはじめ、崇徳上皇方の源氏一族を無残な死に追いやることになる。この源氏分裂の背景には、一族が繰り広げたこれまでの覇権争いが原因となっていたわけだ。父為義とともに上皇方について奮戦した源為朝は、伊豆の大島に流されていった。

しかし、続く平治の乱で、今度は清盛を敵に回した源義朝は敗れ、関東に逃げる途中、暗殺されたんだ。父を殺された悪源太こと義平は清盛を付けねらうが、捕らえられて死罪となった。このとき義平の弟で、義朝の3男である源頼朝は殺されず、伊豆に流された。しかし、源氏はもはや再起不能かと思われたんだな。

それから20年たった1180年、セイゴオ先生が教えてくれたように、以仁王(もちひとおう)の平家追討の宣旨が、伊豆の源頼朝、信濃の源義仲のもとに届いた。同じ源氏とはいえ、これまで見てきたように、二人はもともと敵対する因縁を抱えていたんだ。だからこそ義仲は、どうしても頼朝より先に京都を制圧して、まだ決まっていなかった源氏の総領、武家の棟梁の地位を自分のものとしたかったわけなんだな。



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