何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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土地からうまれた武士たち

2004年10月26日 | 歴史
平安時代も半ばを過ぎ、いよいよ武士という新しい力が登場した。じゃあ、いったいどのように武士は登場して、朝廷に反抗するまでになったんだろうか? それは日本の軍事体制の方法や荘園の変質という事態が重なったことが原因なんだ。今日は、その事情を探ってみよう。

武士は武者とか兵(つわもの)とかいろんな呼び方があるけれど、「もののふ」という言い方もあるのは知ってるかな。「もの」は物質であり霊魂でもあるって、以前、セイゴオ先生が話をしてくれたね。古代には、さまざまなモノの現象に対応したり、船や馬を操って、朝廷の命令で外敵を打ち負かす戦力のある人物、集団のことが「もののふ」と呼ばれていた。つまり、天皇家の軍隊を担っていた物部氏や大伴氏などの貴族も「もののふ」だった。

「もののふ」は奈良時代の律令によって、武官として整備されていったんだ。平安時代の初め、桓武天皇の命令で、東北地方を制圧するために派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍隊は、まさしく「もののふ」だった。けれども、このような朝廷の武官は、摂関政治がはじまると、藤原一門を中心とする貴族の護衛や平安京の治安にあたる役職になっていったんだ。

平安時代に律令国家体制が弱まるにつれて、すべての土地を国有とした前提が崩れ、荘園が広がり、また、土地の開墾を民間に任せるようになった。その土地の開発を担った地方の土豪が、中央の武官との交わることで、武士となっていくんだね。セイゴオ先生にあった将門の乱を起こした平将門の父、平良将(たいらのよしまさ)は中央政府の武官だったけれど、東北地方を鎮圧するために鎮守府将軍として派遣され、関東に下ったんだ。

関東には貴族の荘園は少なく、新たに土豪が開拓し、政府から経営をまかされた農園が多かった。それらの農園は、それぞれの境界線などをめぐって争いがたえず、武力衝突もおこっていた。その戦いに命をかける連中も出現して、「つわもの」(強者)と呼ばれていた。その争いには県庁にあたる国衙(こくが)さえ口を出せずにいたほどだ。関東の「つわもの」は騎馬軍団であり、武力衝突も強烈だったからね。

ちなみに、このころの東北を抑える鎮守府将軍は、平安京から軍勢を率いて東北地方に向かったわけではなかったんだ。国の令条(命令の文書)を持って国衙に行き、現地の土豪から兵隊、食糧などを調達したんだね。これが日本の軍事体制だった。そこで土豪出身の「強者」(つわもの)が、政府の軍隊、「兵」(つわもの)になる。このように、政府から許可された軍人が「武士」なんだな。

こうなると、土豪にしてみれば、武士となった方が有利なんだ。そうしなければ将軍の権限で討伐の対象とされるからね。そこで関東の土豪は一斉に平良将のもとに結集し、一大軍団になったわけだ。もちろん、平良将が桓武天皇の孫の高望王(たかもちおう)の子孫で、かつて高望王が関東を治めたということも、大きなステータスではあった。平将門はこの平氏一門の威光を背負い、東国の武士を統括して新たな国家をつくろうとしたんだな。

一方、西海でも「つわもの」が出現した。漁業や海運という海を使った生活をしている海民(かいみん)がその母体だね。彼らは敵対する者が現れると海賊となり、武装して立ち上がった。10世紀に入ると、瀬戸内海では海賊の横行が激しくなり、大宰府から平安京に向かう朝廷の船を襲撃して、財貨を奪う事件が続発した。それらの船は中国から輸入された物産を山のように積んだ、文字通り宝の船だったからだ。

もちろん、朝廷も襲撃されて黙ってはいない。海賊を捕らえる活動を始めたが、その役についたのが、藤原純友だった。セイゴオ先生にあったように、純友は実は海賊の首領になっていた。いったいそれはなぜだったのだろうか?

純友の家系は、藤原良房の養子となった藤原基経(もとつね)の兄の子孫なんだ。摂関家は基経の子孫が継ぎ、純友の家系は没落して、都を離れていた。純友の父は大宰府の官吏で、海民との交渉にあたっていたんだ。純友自身も海民のネットワークと親しかったんだな。

西海では、古来の地域に根ざした首長が土豪となる場合が多いんだね。そこで政府は国家の公田を土豪に与え、中央から派遣された受領(ずりょう)が土豪から徴税するシステムをとった。ところが、受領の横暴が増え、土豪たちの反発が強くなってきた。そこで純友は九州、四国、中国の海賊をあやつりながら、土豪たちをまとめ、それを背景に高い官位を得て、西海に君臨しようとしたのかもしれない。

しかし、乱が始まると純友の郎党となった土豪たちはそれぞれの思惑で勝手に戦い、朝廷の警察官である追捕吏(ついぶし)の小野好古(おののよしふる)によって戦線は分断されてしまう。豊後水道の孤島、日振島(ひぶりじま)から出撃した純友の水軍は、大宰府を襲撃して焼き払ったが、戦いはこれまでだった。純友とともに戦ってきた西海の「つわもの」は、一斉に小野好古のもとにしたがっていったんだ。好古のもとで戦えば、政府公認の戦士、すなわち「武士」と認められたからね。

そのうちの一族で純友討伐に加わった大蔵氏は、対馬の官吏となったあと、大宰府に土着して武士団を形成した。1019年、とつぜん大陸の女真族が高麗から海をわたり、北九州を襲った「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」事件がぼっ発したけれど、そのとき政府軍として勇敢に戦ったのが、この大蔵氏の子孫だったんだ。西海の海の兵達は、その後、室町時代にかけて高度に組織化され、各地の水軍として活躍していくことになるんだな。








末法の世が生んだ平安の浄土美術

2004年10月21日 | 歴史
浄土へ往生することを心から願った平安貴族たちは、自分の邸宅や別業(べつごう、別荘のこと)に、阿弥陀如来を安置する御堂(みどう)をつくり、そのイメージを確かなものにしたんだな。これがセイゴオ先生が言っていた私的な「院」で、キリスト教でいうなら、寺はカテドラル(公的な聖堂)で、院は個人が祈る教会、チャペルなんだな。

平安後期に造られたこれらの院は、それまでの寺とずいぶん様子が違っていた。平安前期までの寺は、柱や軒が朱色や青色に塗られた異国風の建築だったけれど、院は貴族の邸宅である寝殿造の屋敷を改造したものだったから、白木の和風の建物だったんだ。その寝殿を本堂として、阿弥陀如来を安置した。寝殿造では、宴を開いて楽しんだ池が寝殿の前につくられていたんだけど、こんどはそれを阿弥陀浄土にある池に見立てた。自分の邸宅を浄土にしてしまったわけだな。

本堂に安置された阿弥陀如来像の姿も、それまでの仏像とずいぶん変わった感じになった。平安前期の密教の仏像は極彩色で、顔の彫りもはっきりして、躍動的な生き生きした生命感にあふれていたんだ。これに対して、たとえば平等院の阿弥陀如来像は顔もふっくらして、その彫りも柔らかで、目も半眼にして落ち着いた雰囲気にあふれている。

これは言ってみれば、密教のインド風の仏像から、藤原氏を中心とした貴族文化が生み出した和風の仏像になっていたというわけだ。このような仏像の様式を「藤原様式」という。

平等院の阿弥陀如来の頭上には、中心に大きな鏡をはめこみ、放射状に小さな鏡をたくさんはめこんだ天蓋(てんがい)がしつらえてあった。天蓋というのは、尊い如来の頭上にある笠(かさ)のようなものだな。

本堂の内部を暗くして、大きなロウソクをつけると、仏が暗がりに浮かびあがり、天蓋の鏡に光が反射して、まるでミラーボウルのように仏に天上から光の玉が降りそそぐようにみえてくる。その神秘的な光の中で、まわりの壁には、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩をはじめとする二十五菩薩という菩薩たちが雲に乗って、楽器を奏でたり、舞い踊ったりしている浮き彫りの彫刻がゆらゆら浮び上がって見える。

これは阿弥陀如来が人々を浄土に救い上げようとこの世を訪れるとき、菩薩たちがオーケストラやダンサーとなって、美しい音楽を奏でながらやってくるとされていたことを映したものなんだ。こうしてまさに救済のバーチャルリアリティ空間がこの世につくられた、というわけだな。

末法の時代、こんな阿弥陀浄土の往生を願う信仰のほかにも、多くの信仰が生まれていた。たとえば、貴族の女性の間では『法華経』がもてはやされて強く信仰された。なぜかというと、多くの仏典は、女性をけがれたものとしていたんだな。ところが『法華経』では、その経典に書かれていることを信じるものをさまざまな菩薩が救いにくるとしていた。とくに獅子(しし)に乗ってあらわれた勢至菩薩は、女性を救うと誓っていたんだ。

そこで貴族の女性たちは、高貴で美しい姿の勢至菩薩を絵師に描かせ、毎日、祈りを捧げた。この勢至菩薩像の画像には、十二単(じゅうにひとえ)の女性たちが描きこまれていたりすることもあるんだ。

また、今は京都国立博物館にあるけれど、「金棺釈迦出現図」のような釈迦が復活するというシーンをあらわす仏画も描かれた。これは、釈迦如来が亡くなったとき、母の摩耶夫人が天から駆けつけて、釈迦の金の棺に取りすがって嘆き悲しむと、釈迦はお棺の中から身を起こし、母に説法した、という仏教説話を絵画化したものなんだ。平安の末法の世の風潮のなかで、釈迦の再生への信仰が高まったことをあらわしているわけだな。

こういった絵画は日本独自の大和絵(やまとえ)の技法で描かれたんだ。平安時代の後期、阿弥陀如来の西方浄土への往生を願う信仰が新しい仏教美術のテーマや画法を生んでいった。末法の世に生まれたこれらのアートは、どこかはかない美をたたえていたんだ。そのフラジャイルさも日本の文化を特徴づける新しい要素になっていくんだな。

阿弥陀信仰に向かった平安仏教

2004年10月14日 | 歴史
セイゴオ先生が教えてくれたように、「浄土」とは、あの世であり、みんながあこがれた悟りの地なんだね。でも、キリスト教やイスラム教にも「天国」がある。それとは、どこが違うんだろうか? 

キリスト教やイスラム教では、唯一の神が7日間で宇宙を創造したことになっている。そして、アダムとイヴをつくったが、2人は知恵をつけて、その子孫は神に逆らうこともしはじめた。そこで神は、最後の審判のときに宇宙を全部破壊し、すでに死んだ人もふくめて、すべて人間の魂を裁いて、良い魂は神の国、つまり天国に救い上げ、ほかは地獄に落とす、といましめたんだな。

これに対して、仏教に宇宙を創造した神はいないんだ。宇宙は五大と呼ばれる5つの元素(地・水・火・風・空)が結びつきあって、だんだんできてきた。そして宇宙のところどころに、須弥山を中心とするたくさんの世界が現れたとするんだな。これを三千大千世界という。前に大仏を扱った「華厳に描かれた宇宙モデル」で話したことだね。この須弥山世界に発生した生命は争ったり、交わったりしながら進化してきた。そのなかで、不浄なものは大地の底、「地獄」に沈み、清浄なものが須弥山の上に上昇したという。

こうして、須弥山に「天」が住み、まわりに人間や動物、阿修羅(あしゅら)、餓鬼(がき)も住んでいる。「天」とは、お寺で見かける弁財天(べんざいてん)や毘沙門天(びしゃもんてん)などのことだね。

セイゴオ先生にあったように、仏教では生命はすべて輪廻すると考えたんだ。輪廻はインドの言葉で「サンサーラ」といい、生前の行いで、次に別な生物や世界に生まれ変わるということだったね。だから、来世は動物になったり、地獄に落ちたり、あるいは「天」に行くこともあると考えられた。この輪廻によって生命が常に変化することを「無常」(むじょう)という。

この「無常」から脱出する方法を解き明かしたのが仏陀、お釈迦様だった。その方法とは、生命がお互いを認め、助け合うことで、餓鬼も地獄もない永遠な浄土(清らかな世界)を築くことにあったんだ。これには「天」も「阿修羅」も感動して、仏教に従うものを助けようと誓ったという。さっきの弁財天や毘沙門天など名前に天がつく神や、阿修羅や迦楼羅(かるら)などの鬼神が寺院に祀られているのは、こういうわけだったんだな。そして、このような真理を説く存在が「如来」、その教えを広め、実践しようとするのが「菩薩」と呼ばれるんだ。

そして、釈迦如来がきたこの世界は、何千もの須弥山世界がある中では後発で、理想もなかなか実現できないでいる世界とも考えられた。そうなると他の世界では、はるか昔に如来が現れて、素晴らしい浄土を築いているはずだね。その先進世界の浄土を築いた如来が後進のこの世界を助けにくるとされたんだな。

その数え切れない浄土のなかで、日本人は特に2つの浄土にあこがれ、その浄土を築いた如来に救いを求めた。それがはるか東方の浄瑠璃(じょうるり)浄土を築いた薬師如来と西方の極楽浄土を築いた阿弥陀如来なんだ。えっ、なぜこの二人の如来だったかって? その理由は、これらの如来が浄土をつくるときに立てたという特別な誓いにあったんだ。

薬師如来は病気を治す力を持っていたね。それは修行中に「もし真理を解き明かし、浄土を建設できたら、自分と同じ思いを抱くものを病気や貧困、災難から救う」という12の誓いを立てたからなんだ。その誓いを守る薬師の信仰が広まったんだな。

阿弥陀如来も、何億年も生まれ変わりながら続けた修行時代に、48の誓いを立てた。その誓いの18番目に、「あらゆる人を、わが浄土に往生できるという思いから、ただ念仏するよう育てる」とある。往生とは、この世の輪廻を脱して浄土に生まれることをいうんだね。ただし、五逆の罪(父、母、修行僧の殺害、僧の差別、僧の血を流すこと)を犯したり、仏の教えをののしるものは除くとも言う。すると、阿弥陀の浄土に行けない人は地獄に落ちるということにもなってくる。

こうしたことから、平安時代の後期には、貴族たちは生きているうちは薬師如来の救いを求め、死後は阿弥陀の浄土への往生を願うようになった。セイゴオ先生が教えてくれた浄瑠璃寺の西の本堂には、九体の阿弥陀如来を祀っていたね。対する東の塔は浄瑠璃浄土の薬師如来が祀られているんだ。阿弥陀が九体あるのは、生きているうちの行いによって、上の上から下の下まで、九段階の姿で極楽浄土から迎えに来るとされたからなんだな。

ちなみに平安王朝という貴族社会では、貴族がいちばん上位にあり、仏教についても良く知っていたので、仏教が禁じる生き物を殺したり、戦いをすることも少なかった。だから、阿弥陀如来が極楽浄土に招くのは、まず貴族だ、と貴族たちには信じられていた。こうした貴族の浄土信仰をゆるがしたのが、市聖(いちのひじり)、空也上人だった。

空也は人間に生まれつきの貴いとか、賎しいとかいうことはなく、貴族や僧りょといえども欲望のままに生きて他人を不幸にしたら、地獄に落ちるとキッパリ言い切った。そして、庶民は生きるために、仏教が禁止することを犯すこともあるが、仏はそれを知っているから、ひたすら念仏をしなさいと教えたんだな。

空也の革新的な教えは、貴族や旧来の考えに凝り固まった僧りょには猛反発を受けた。けれど、みやびな生活とは裏腹に、男女の差別や家庭の問題の悩みをもった貴族の女性たちが、空也上人たちの念仏を支援したんだ。また、空也上人らが庶民の町の市に立つ市聖と呼ばれたように、このころには流通市場としての「市」が発達し、庶民の力は大きくなってきていたんだね。

日本の仏教が、貴族や庶民を問わず阿弥陀信仰に大きく傾いていったのは、こうした事情もあずかっている、というわけなんだな。


みやびが生んだ日本の行事

2004年10月05日 | 歴史
平安時代、京都の貴族に発生した生活、文化、アートのモードを「みやび」というんだね。いまでも最先端のファッションが、クラブやカフェから始まるように、流行には発信地がある。「みやび」というモードの場合も例外じゃないんだ。京都の北の中央、一条通から二条通(現在の丸太町通)にあった大内裏(だいだいり)がその発信地だったんだな。

大内裏には大極殿を中心とする官衙(かんが)、今でいえば官庁、役所が密集し、その一部に天皇一家が住む内裏、すなわち皇居があった。じゃ、そのみやびを生んだ「宮城」(きゅうじょう)の外観から見てみよう。

大内裏は、都の皇帝の住居のまわりに官庁を配し、城壁で囲んだ中国の宮城をモデルにしていたんだ。高い塀に14の門を構えて、南側の中央には、丹色(にいろ)の朱雀門がそびえる。そこから平安京の南端にある羅城門まで、幅85メートルの朱雀大路が一直線に伸びていた。つまり、平安京に羅城門から入ると、広大な道のはるか向こうの突き当たりに大内裏がそびえている。この眺めは全国のどんな有力者も圧倒し、畏敬(いけい)の念をおこさせた。「みやび」の感覚には、こうした圧倒的な威容もふくまれているんだね。

この内裏ではさまざまな行事が行われるけれど、それらは秘密でもあって、まねすると厳しく罰せられたんだ。これは日本の天皇が司祭王(神々を祭る司祭のトップ)という伝統もあって、おそらく倭の五王時代から厳守されてきた。実際にも『古事記』や『日本書記』には天皇の住まい、着物、行事をまねて滅ぼされた豪族の伝承がいくつも記載されている。

けれども、摂関政治がはじまると、藤原北家が天皇の外祖父として君臨し、天皇となる皇子が、代々、その邸宅で育てられるようになってくる。すると天皇家の生活スタイルが藤原氏に伝わって、だんだん平安時代の貴族の生活、文化の基礎となっていったわけだな。その基盤となった貴族の館がセイゴオ先生が教えてくれた寝殿造(しんでんづくり)だったんだ。

最初の寝殿造は、摂関政治を開始した藤原良房の東三条殿(ひがしさんじょうどの)といわれる。このような寝殿造の邸宅は藤原一門が栄えるともにコピーされつづけ、貴族の邸宅として波及した。これが、「みやびな生活」の場所なんだな。でもこの寝殿には、現代人が想像する日本建築とは異なったところがあるんだ。

屋根は萱葺だけれど、主要な柱は白木の丸柱で、ひさしの間以外には角柱は使わっていない。さらに天井は張らずに、床は板張りだ。これ、古くからの神社のつくりとよく似ているんだな。実は天皇が住む内裏は神の社(やしろ)を住居空間として整備したものでもあったんだ。

古くは天皇が神々を祀る空間でもあった「宮」は内裏となって、中国の皇帝が行う行事や仏教行事なども含めたお祭りや行事の空間ともなっていた。その行事が貴族の館でも行われるようになったというわけだな。寝殿造とは、こうしたまつりごとを行う空間でもあった。

政治のことを「まつりごと」とも呼ぶのは知っているかな? 古代の日本では、天地、天候の安定や子孫の成長、繁栄を願う祭が、政治の重要な部分を占めていたんだね。その儀式が「年中行事(ねんじゅうぎょうじ)」として定着していった。

たとえば、宮中の正月1日の行事は、天皇が元旦の寅の刻(午前4時)に天地・四方・山陵(祖先の墓)を礼拝して、災いを祓い、豊作と国家の無事を祈る行事として、9世紀終わりから恒例となったものだ。また、3月3日の儀式「上巳の祓い」 (じょうしのはらい)は 、古来にあった素朴な「ひとがた」に自分の災いを託し、水辺に流すという風習が貴族の間で洗練されたもの。この「ひとがた」がひな人形となったのがひなまつりなんだな。

じゃあ、端午の節句はどうなんだろう。中国の陰陽説では、5月は陽が極まってかえって陰を生ずる月とされ、午(うま)の日はそれが極まる「不祥の日」ということで、蘭の湯に入って薬草の蓬や菖蒲を髪飾りなどにして、身の汚れを避けた。5月5日の行事はそれが発展したものだ。さらに物語のときに話したように、7月7日の七夕は、官女の裁縫の上達を祈る祭でもあったね。それが文字や和歌、音楽などの上達も願う美しい祭になっていく。9月9日もある。これが菊の節句で、菊に真綿を巻いて露をしみ込ませ、それを体につけて長生きを祈る行事になった。

このように奇数の月と日が重なるときを、季節の節目の「節句」としたんだ。そこに春分、秋分のお彼岸(ひがん)、4月1日と9月1日に、御簾や几帳などの調度や着物を変える「更衣」(ころもがえ)、6月30日の半年の穢れ (けがれ) を祓う「夏越の祓え」(なごしのはらえ)、7月15日からは、今はお盆となっている盂蘭盆会(うらぼんえ)などが加わる。8月15日の仲秋の名月だってあった。え、1カ月早いんじゃないかって? その通り。これらの行事は、旧暦の太陰太陽暦で行われたので、今の太陽暦からみると1ヵ月少々早くなっているんだね。

このように四季の変化にそって繰り広げられる平安時代の行事は、天皇から貴族にうつって生活スタイルとなっていったわけだ。中世に入ると今度は武家がこれらの行事を受け継いでいく。さらに近世以降に引き継いだのが庶民なんだ。伝統に生きていなくても、現代日本人の生活文化のベースには、実は平安の「みやび」なうつろい感覚が生きているというわけなんだな。

歴史に生きる物語の系譜

2004年10月02日 | 歴史
平安時代中期、貴族の間では、物語が流行する時代がやってきたわけだな。しかし、物語そのものは、人間の歴史とともにあるともいえる。セイゴオ先生が、「モノ」とは「物」であり、「霊」(もの)でもあると言っていたように、物語とは、霊が働いているようなできごとを語ることから、さまざまな事件について、推理や臆測もふくめて語り継がれたものをいうからね。つまり、神話もそうした物語の1つだったわけだな。

それらの中から、人々を楽しませるフィクションとしての物語が文字で残されてきた。あの『万葉集』にもそういった古い物語が伝えられているんだ。たとえば、中国の牽牛と織姫の物語を元にした歌は、『万葉集』に130首以上もあるんだね。それは次のような中国の星の物語がもとになっている。

織女(琴座のベガ)は機織りが上手で、牽牛(鷲座のアルタイル)は働き者だった。そこで天帝は二人を結婚させたけれど、そのあと朝から晩まで天の川のほとりで愛を語らい、仕事をしなくなってしまった。これでは織姫が織る錦の仕上がりが遅れるというので、天帝は怒って二人を引き離し、年に一度だけ、7月7日に会えるようにしたという話。みんな知ってるよね。この七夕の日が、女性の裁縫(さいほう)の上達を願う乞巧奠(きつこうでん)という行事になって、持統天皇の時代から宮廷で行われるようになった。それで、七夕の物語の歌がたくさん詠まれたというわけだな。

『万葉集』には、「浦島太郎」の物語もある。これは奈良時代の歌人・高橋虫麻呂の歌集にあったものを大伴家持が採録したものだ。水江の浦の嶋子を詠んだ歌で、嶋子が海の神によって大漁に恵まれ、その娘と結ばれながら、手に入れた幸せを失ってしまうという内容になっている。さらに『万葉集』には、古い「竹取物語」のいろいろなバージョンも収録されているんだな。その代表的なものが、竹取の翁(おきな)と9人の天女の話だ。

竹取の翁がある丘に登ると、9人の天女があつもの(煮込み料理)で宴会を開いていた。天女の一人がやってきた翁に料理の火の番をさせたら、ほかの天女が、だれがこんなおじいさんを呼んだのかと文句をいった。そこで翁は、若いときはちやほやされて、今はばかにされるけれど、あんたたちもいずれそうなる、という立派な歌を詠んだ。天女たちは感心して、それぞれ「あなたのような優れた人となら結婚してもいい」という歌を返したという物語になっている。つまりこれは、天女が人間に求婚するという話が原型になっているんだな。

ところが、日本の物語文学の祖といわれる『竹取物語』では、天女のかぐや姫が人間から求婚されるストーリーに変わっている。つまり、セイゴオ先生にあるように、この物語の作者は誰か知られていないけれど、新たに創作された物語だったんだね。そこでは、竹取の翁が竹から生まれたかぐや姫の育ての親となり、壬申の乱に活躍し、天武天皇の時代に出世した実在の人物が、かぐや姫の求婚者のモデルになっている。たとえば、車持皇子は藤原不比等で、中納言石上麻呂足(いそのかみまろたり)は物部連麻呂(もののべのむらじまろ)といわれるんだね。

こういうふうに、空想と現実をいっしょくたにすることを「虚実皮膜」(きょじつひまく)というんだけれど、『竹取物語』は、これがよくできているんだ。かぐや姫は難題を出して、求婚者を断り、天上に帰るよね。『竹取物語』は、アジアによくみられる物語の原型を使いつつ、仏教や道教などとともに入ってきた寓意(ぐうい)をちりばめて、王朝の有力者たちのありかたを風刺するストーリーになっている。つまり、自然に始まった物語に、そのときの現実を批判したりする創作が加わっているんだ。だからこそ、「物語の祖」というわけだな。

『竹取物語』のあとには、日本ならではの物語も生まれた。それが「歌物語」。和歌があって、その和歌はどのような状況で詠まれたかを語る物語なんだな。僧正遍照らの和歌をめぐった『大和物語』、また、前にも言ったけど、在原業平の和歌を元にした『伊勢物語』が有名だな。

仮名を使い始めた宮中の女房(女官、宮廷に仕える女性)たちは、こんなアジアや日本の物語のタイプをもとに新しい物語をつくっていったわけだ。もともと女房たちの仕事には、実は冊子つくりというものがあった。セイゴオ先生が教えてくれたように、皇后や姫君、皇子たちの読書とは、絵を見ながら、そばで女房たちが話を読み上げてくれるというものだったね。その冊子は、古物語という昔から語り継がれた話を女房たちが文字に記したものなんだ。そこから新たな話をつくる女房たちが現れてきた。

『源氏物語』の作者、紫式部は『紫式部日記』の中で、「中宮の御前に伺候して、色とりどりの料紙を選び、物語の本をそえて書写を依頼する手紙をあちこちの人に配る。一方では、紙を綴じ集め冊子に仕立てる役をつとめて一日を過ごす」と書いている。こうした物語の冊子を作る日々の中から、『源氏物語』が作られていったわけだな。

また、紫式部は、和歌が歌合によって宮廷の文学になったように、「物語合」(ものがたりあわせ)によって、仮名で書いた物語が宮廷の文学となることを願っていたんだ。『源氏物語』の「物語合の巻」では、竹取物語と宇津保物語を絵と詞書(ことばがき)の冊子を合わせて、どちらが優れているかを判定するシーンがあるんだな。

しかし、『源氏物語』で空想的に行われた物語合は完全には実現しなかった。『源氏物語』の刺激を受けた女房たちは、11世紀の中ごろから実際に物語合をはじめたといわれている。1055年に斎院宮物語合が開かれ、小式部という女房が『堤中納言物語』に収録された「逢坂山を越えぬ堤中納言」という物語を発表しているんだね。でも、物語合は、歌合のように天皇が主催して行われることはなかったんだな。

平安時代に創作された物語は、和歌ほど文学の中心とはならなかった。そのため、女房たちが作ったたくさんの物語のほとんどは、女子供が好む空想話ということで、失われてしまったといわれている。とすると、『源氏物語』など残された物語はどれほど強烈なインパクトで人々が受け取っていたかがわかるんだな。

しかし、この平安王朝のすべての女性作家たちの果敢な挑みは、決して色あせることはない。だって1000年以上も前の時代に、多くの女性が文学で社会に影響を与え続けた国なんて、日本以外に世界のどこにもなかったんだからね。