何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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反逆するヒーロー六歌仙

2004年09月24日 | 歴史
『古今和歌集』に集められた和歌。「和歌」という言い方は、中国化が推進された平安初期だからこその呼び方なんだな。この時代、『万葉集』にみられる古くからの日本の定型詩は、漢詩に対して和歌、日本の歌と呼ばれたんだ。朝廷の公の文芸は漢詩になったけれど、しかし、和歌が途絶えることはなかった。セイゴオ先生が言ったように政権から遠ざけられた貴族たちのサロンで和歌がよまれた。タテマエは漢詩で、ホンネは和歌というわけだな。

こうして私的な文学となった和歌を『古今和歌集』につなげたのが六歌仙とされる。僧りょの遍昭(へんじょう)、絶世の美女・小野小町(おののこまち)、モテモテの色男で有名な在原業平(ありわらのなりひら)、官吏でもあった文屋康秀(ふんやのやすひで)に、喜撰(きせん)法師、大伴黒主(おおとものくろぬし)の6人。六歌仙とは、いったいどんな人々だったんだろう?

六歌仙の中でも、最も古い遍照は、桓武天皇の血筋を引く良岑(よしみね)氏に生まれ、849年には蔵人頭になった優秀な官僚だった。けれど、藤原氏の強引な政治にいやけがさし、妻子にも告げず、突然、比叡山で出家し、天台密教の修行にはげみながら、和歌をつくる日々を送った。遍照は、僧りょになって俗世を離れ、和歌に遊ぶ「歌僧」のはじめとされているんだ。遍照は悲運の皇子、惟喬(これたか)親王や六歌仙の紅一点、小野小町とも和歌を交わしている。

小野小町のことは聞いたことがあるよね。小町は遣隋使の小野妹子を輩出した小野氏の出身といわれている。『大和物語』に官僚として活躍していた若き日の遍照に恋して、和歌を贈りあったとあるけれど、生涯はナゾに包まれている。小野氏は桓武天皇のとき、蝦夷征伐の将軍として活躍した。東北地方には小野氏を名乗る氏族が多く、伝説では、小町は出羽の福富荘(現在の秋田県雄勝町)に生まれ、13歳で京都に上り、天皇の身のまわりの世話役、更衣(こうい)となったというんだな。

小町の美しさは超有名で、宮中の勤めを辞めると、そこらじゅうの貴族が求婚してきたけれど、みんな断ってしまった。深草少将に百夜通えば妻になると約束し、百夜目に少将が死んでしまったという「百夜通い(ももよがよい)」の伝説もある。小町は、いわば、つかのまの美ぼうによって貴族に愛されるより、永遠に残される和歌の世界に命をかけたともいえる。これは貴族を最高の存在とする時代への反抗でもあったわけだな。

六歌仙の一人が日本の美女の代表なら、もう一人、美男代表がいるのも六歌仙のすごいところ。そう、在原業平だ。業平は薬子の乱を起こした平城天皇の孫なんだな。平城天皇の皇子には、第一皇子の阿保(あぼ)親王と、皇太子の位を奪われてインドに行こうとして異国で死んだ第三皇子の高丘(たかおか)親王がいて、この二人の子孫が在原氏となった。業平は『古今和歌集』に30首も取り上げられた和歌の力量もあって、女性たちに大いにモテた。でも実は業平には、大きな野望があったんだ。

そこには惟喬親王の存在がある。文徳天皇の第一皇子だった惟喬親王は、摂関政治の確立をめざす藤原良房の最大のライバルだったんだね。親王のまわりには業平をはじめ、反藤原派の貴族が結まった。業平は、惟喬親王が天皇になったら、藤原氏を抑えて皇族の政治を復活しようと考えていたんだ。反藤原氏の政治サロンでは和歌をよみあい、惟喬親王を中心とする、いわば政治結社の団結を深めた。けれども、惟喬親王は皇太子になれなかった。

藤原良房は惟喬親王に強引な圧力をかけ、自分の娘が生んだ1歳の赤ん坊を皇太子とすることに成功した。これがのちの清和天皇だ。惟喬親王は大宰府の長官、諸国の国司などにまわされ、ついには僧りょとなって、世をはかなんで滋賀県の小野の山里に隠れ住み、和歌をたしなむ日々を送ることになる。

業平のほうはどうなったかというと、藤原良房が清和天皇の皇后に立てようとしていた藤原高子(たかいこ)と恋仲になってしまった。政界のドンの良房にしてみれば、業平はまさにお邪魔虫。良房ににらまれ、京都にいられなくなった業平は関東に下ったといわれている。この業平の生涯を物語にしたのが、有名な『伊勢物語』だね。

この藤原高子が皇后になり、王宮のそばの二条に邸宅を構えていたとき、そこに出入りを許された歌人が、文屋康秀だった。文屋氏は天武天皇から分かれた家柄だが、地方長官の位にとどまっていた。康秀は若かったころ、三河(みかわ、愛知県東部)の地方長官に決まって任地に出発するとき、小野小町に和歌を贈って、いっしょに来てくださいと誘ったが、見事に断られた。しかし、その和歌が歌合で大評判をとったんだ。康秀は和歌で皇后の関心を引いて出世を願ったが、そんなに地位は上がらず、うらみの歌も残している。

そして、喜撰法師は素性もしれない修行僧で、醍醐山をはじめ、京都の東南の山中で修行していたらしく、仙人となって、どこかに飛び去ってしまったという。最後の大友黒主は近江の豪族らしく、壬申の乱で殺された大友皇子の子孫ともいわれている。今も琵琶湖のほとりに建つ、壮大な園城寺の建設に寄与したという伝説が残されている。この二人は『古今和歌集』には喜撰がただ1首があるだけで、大友黒主は一首も残されていない。

こうしてみると、この六人の歌人は摂関政治に不満をもっている、あるいは貴族社会から遠く離れた別世界に生きた人たちだったことは事実なんだな。6人の生き方は、王朝への反抗、時代への抵抗でもあった。しかし、こんな六歌仙を在原業平をのぞいて、紀貫之はあまり高く評価していない。宮廷の文学の中心が和歌となろうとする時代に、王朝に反抗する和歌はすでに意味がなくなっていたためなんだ。

紀貫之は、『古今和歌集』の序文で、近年の和歌の特色を示すために、たまたま伝説のベールにおおわれた6人を「近き世に名の聞こえた歌人」としたのかもしれないね。ところが、偶然にも6人だったことが意外な効果を生み出した。さあ、なんだか分かるかな? 

6という数は中国の聖典の「六経」に通じ、正義を暗示する数字なんだな。また、雪の結晶が6角であることから、陰と陽を基本とする中国古来の自然観では、陰の極みとされ、陰から陽への転機をも表している。それは、時代の転換をも意味してるんだ。このような中国哲学の影響が一般にも広がった13世紀ころには、紀貫之が挙げた、世に入れられなかった6人の歌人が、時代を変える特別なパワーをもつ仙人とみなされ、六歌仙とされるようになったらしい。

このイメージは江戸時代にも伝わっている。江戸歌舞伎の「六歌仙物」は、六歌仙が反逆を実行するというSFまがいのストーリーだ。5人のいやしい職人や物売りが美しい町娘に和歌を贈って近づいてくるが、実はみんな六歌仙の生まれ変わりで、中でも大悪党の黒主がほかの五仙を誘って、天下の転覆をはかるという話なんだ。これが、政治にうんざりしていた江戸の庶民の大喝采を浴びた。さらに義侠(ぎきょう)心にあふれた六人のゴロツキが天下を動かそうとする奇想天外な物語、『天保六花仙』(てんぽうろっかせん)にも発展した。

つまり、正統からはずれ、世に反抗を続けた人物は、時代を超えて、いつだって人々の思いを代弁する役割を担っているというわけなんだな。