何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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寄進は商業の始まり

2004年09月06日 | 歴史
鵜飼が天皇に献上するための漁だったなんて、セイゴオ先生の解説に驚いた人もきっと多いだろうね。こうした朝廷や神社に、さまざまな生産物を寄進していた人々、彼らの活動は実に多彩で、商業や芸能の発生にも深ーくかかわっていたんだ。じゃ、ちょっとそれを覗いてみよう。

寄進の歴史はとても古く、飛鳥時代にもさかのぼる。古代では、国民の大部分は農民で、たいがい自給自足の生活だったから、毎日の着物も食物も自分でつくって、足りないものは物々交換すれば大体まかなえた。でも、そんなことのできない天皇や豪族はどうだったのだろう?

物々交換ばかりで店もないので、宮中のだれかが新鮮な野菜や魚や果物を買いにいくわけにもいかない。また、気軽な交通機関なんてないので、産地まで出かけるのも大変。そこでつくったのが、米から日々の生鮮食品、さまざまな織物や家具、調度などを、生産者に寄進させる方法だったわけだ。

寄進のシステムは、さきに神社で発達していたんだね。神社をまつる人びと、今でいうと氏子(うじこ)が、神社を建て、織物の幡(はた)や木工の収納箱や祭壇、鏡などの金属器や祭りの陶器など作る。さらに神饌(しんせん)という神さまの食事も用意して、歌や音楽も提供していた。ここには神社に奉仕し、生計を立てる職人集団が生まれていたんだな。

とくに魚介類や海藻、野菜などの副食品を贄(にえ)といって、これは毎日、神社にささげなくてはならなかったから、神さまとより深い関係にあった。だからこうした神さまにまつわる品物をつくって寄進する人たちを、「贄人」(にえびと)と呼び、一種の神聖な職業ともなっていったんだね。今でも、伊勢神宮のための鮑(あわび)をとる海女(あま)や塩焼きの職人などに、古い贄人の姿が残されている。

こうした神社を中心に地域共同体をまとめていたのが、古墳時代から飛鳥時代にかけての豪族たちだった。かれらは贄人にさまざまな生活物資を生産させ、野山や海川から産物をとらせて、寄進させたんだな。そのとき給料にあたる田畑を与えて、それを保護したんだ。そして、天皇を頂点とする朝廷ができてくると、天皇とその一族の生活物資を提供する屯倉(みやけ)などが各地につくられていったわけなんだ。

しかし、8世紀に入り、律令国家の体制が整ってくると、贄人の慣習も崩れそうになった。律令制の公地公民の下では、土地は国有地だね。神々の世界とされていた山野、川海などが分割され、人手が入るようになってきた。そこで、国家のトップでもあるけど、地域の共同体の首長でもある天皇は、律令制の下で贄人と彼らの土地を天皇の直属と正式に定めたんだ。そして寄進は、従来の慣習から離れ、律令が定める義務とされた。

平安時代の初期まで、こうした人びとは生鮮食品の寄進者のイメージが強かったので、まだ贄人と呼ばれていた。けれど、律令体制では、宮中での天皇、皇族の食事を「供御」(くご)と呼んだので、やがて広く物品を寄進する人びとを、禁裏供御人(きんりくごにん)と呼ぶようになるんだな。炭を提供する炭供御人、夏に氷を提供する氷室(ひむろ)供御人、猪(いのしし)の皮を寄進する猪皮(いのかわ)供御人など、いろいろな手工業生産物を貢納する者は、すべて供御人となった。供御人たちは、朝廷の許可を得てさまざまな省庁に属したんだけれど、この許可を与えられた供御人のトップは、実は女性だったんだな。

たとえば、現在、京都の風物として知られる大原女(おはらめ)には、薪を宮中に納めた供御人の姿が残されている。供御人を統括する資格が女性にある理由は、こういった人々が神社の巫女(みこ)を起源としていたからなんだね。そして、供御人たちには、宮中に納めた残りを京都の町で売る特権を与えられたんだ。いわば商人の始まりだな。そのため、この後も日本の商人の主力は女性になる。だから、今でも伝統的な市の売り手には、女性が多いんだね。

供御人の仕組みは平安時代中期には、朝廷だけではなく、貴族や寺社にも拡大した。地域の有力者、長者などが、一族の女性を立てて供御人の称号を得て、皇族、貴族、寺社への寄進物をつくる地域、「御厨」(みくりや)を設置しはじめた。特権的なこの貴族らの行為には反発もあって、883年に太政官が発行した文書には、「皇族、貴族、寺社などが地方勢力と結んで、贄人の許可を乱発し、弱い班田の農民をしのぎ、政治を害している」と書かれている。

しかし、これは供御人の寄進の制度を利用して、これまで朝廷に隷属(れいぞく)していた公務員としての各地の職人を、民間に開放したともいえるんだ。これが地域に新たな産業をおこし、朝廷が独占していた運輸業などの自由化に結びつく。また、供御人たちには芸能を奉納する人々がいたけれど、各地の歌舞・演劇などは、宮中や寺社だけで演じられていたんだね。その芸能が広く開放されて、都の文化と地方の文化が合わさり、編集されて、新たな日本文化が生まれていった、というわけなんだ。