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遺跡発掘で見えてくる平安荘園ライフ

2004年09月07日 | 歴史
古代に経済を支え、あげくはバブル崩壊まで引き起こしたほど、荘園は重要な社会基盤だったわけだ。しかし、その荘園に生きた人びとは、いったいどんな暮らしをしていたのか、想像がつくかな? 平安時代から室町時代の終わりまで続く荘園の暮らしが分かると、地方の生活が見えてくるはずだけど、その実像はこれまでなかなか分からなかった。

近年になって、地方の高速道路や地域開発によって、荘園の遺跡が次々に発掘されると、その荘園の実体が明らかになってきたんだ。じゃ、今日はちょっとガクモンして、考古学や史料からみた荘園生活を話してみよう。

まずは、古文書調査からだ。『百合文書(ひゃくごうもんじょ)』という東寺の荘園について書き記した文書が残されている。そこには、今の兵庫県の篠山(ささやま)市のあたりに、平安時代の初期、摂関政治の基礎をつくったあの藤原良房が領有した「宮田荘」(みやたそう)という荘園があって、室町時代まで続いたと記されているんだ。しかし、長い間、実際にはどこにあった荘園なのか不明だった。

1985年、近畿自動車道舞鶴線の建設に先立つ調査で、弥生時代後期から古墳時代前期、奈良時代末期から平安時代中期、平安時代末期から鎌倉時代の3層におよぶ集落の遺跡が発見された。「西木ノ部(にしきのべ)遺跡」と名づけられたこの遺跡は、三方を山で囲まれた谷のゆるい斜面にあり、その下方には宮田川が流れ、その流れにそって水田が広がっている。

調査の結果、遺跡の古い層、弥生時代にはじまった集落は一度とだえ、奈良時代末期に新たに開墾され、柵で囲われた建物遺跡群がつくられ、さらに平安時代末期に新たな建物群に発展したことがわかってきた。これが『百合文書』に記された「宮田荘」の記載と一致したんだね。良房から室町時代中ごろの、藤原氏の中の近衛家(このえけ)に続く藤原氏の荘園、「宮田荘」の中心部がここだったんだ。

では、発掘された荘園からはどんな生活の様子が見えるんだろうか。平安時代中期までの層からは、掘立柱建物跡を中心にした建物跡群や井戸、溝などが発見された。南側の谷に排水用の溝があって、そこから、なんと100点以上もの緑釉陶器(りょくゆうとうき)の破片が出土したんだ。

奈良時代に、日本には唐の時代を代表する黄色、白色、緑色の三色で彩った唐三彩(とうさんさい)という焼き物が入ってきて、奈良三彩という焼き物がつくられたんだけれど、緑釉陶器はその緑色だけの釉薬(うわぐすり)を全面にほどこした陶器で、当時の平安日本では貴重なものだったんだ。

なぜかというと、唐王朝の中期以降、、南方の越州(えっしゅう)でつくられてきた越州青磁(せいじ)といわれる美しい焼物があって、これが日本の貴族に大変人気だったんだな。でも、中国から輸入される青磁は、極めつけの高級品で、貴族といえどほとんど手が出せない。そこで、現在の青磁に比べて緑がかっていた越州青磁を、京都、滋賀、美濃(みの)などで焼かれた色の近い緑釉陶器で代用したんだ。それでさえ貴族でなくては絶対に手に入れることができなかったんだね。

このような舶来高級品風の緑釉陶器のみならず、建物跡には、奈良時代から朝廷に出勤するときの礼服に使用した中国風の革帯(かくたい、皮製のおび)の飾り具、硯(すずり)なんかもあった。そして、平安時代末期の層からは、中国でつくられた合子(ごうす)というふたつきの壷も発見される。これは化粧品や薬を入れるのに使ったんだな。

これらの遺物から、この荘園に生きた荘官の生活が見えてきた。宮田川流域に広がる水田を管理した荘官の館では、高価な中国風の緑釉の陶器に、中国風の料理を日本の素材でアレンジした食事が出されていた。革帯の飾りは、この荘園の管理者が、直接、朝廷に出かけて執務するほどの位にあったこともわかる。

その中国的な生活の一方で、神社の建築などと共通する掘建柱(ほったてばしら)の館に住んでいたから、生活空間はあくまでも和風だったということもわかったんだ。衣服や食事は中国風で、全体としては和風の生活。この中国のところを欧米に置き換えたら、いまのちょっと高級っぽい生活にもあてはまるね。

さらにこの遺跡からは、3つの木組の井戸が発見されている。その1つから、井戸を祀ったときに使った木製の斎串(さいぐし)が発見された。これは細長い板の先を細長くとがらせ、左右に切りこみをいれた串状の木製品で、神を祭る道具だ。また、皇朝十二銭の1つ、隆平永宝(りゅうへいえいほう、795年に初めて発行)や、儀式に使われたと思われる墨で文字を書いた墨書(ぼくしょ)土器なども出土した。

荘園の中心地に発見された井戸から、その水が荘園を治めるために重要性な意味を持っていたことが伝わるんだ。井戸は、川や池よりもはるかに飲用に適した水を荘園の農民たちに提供できるからね。墨書土器などが出土するのは、ここが聖なる場所とみなされて、荘園をあげての盛大な祭りが行われたためだと考えられているんだ。

一方で、遺跡を囲んでいるのが実に頑丈な柵だったこともわかった。それは、ここが年貢を集めて出荷する場所で、盗賊に対するものであったこともあるけど、囲われた荘園というものが、荘園外の周辺農民とも一線を画し、緊張関係を持っていたことも暗示させるんだな。