松何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ
このブログはセイゴオ先生の歴史教室「にっぽんXYZ」ブログと並行して展開します。両方同時にお楽しみください。 もちろんおさわがせの7人娘「なにわセブンローズ」もご一緒します。みなさんの質問にもタカハシ君が答えてくれるかも…。
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貿易国家をプランした平清盛が政権をにぎると、宋から輸入した銭貨、宋銭(そうせん)の流通がすごくさかんになったんだ。九州に出現した博多荘などの海外貿易港では、宋銭はとうぜん国際通貨としての働きをしていたんだな。北宋の絶頂期の銅銭の製造量は年間60億枚といわれている。日本へはたった1回の貿易船で数百万枚もの銅銭を持ち帰ったというんだね。こうしてばく大な数量の宋銭が日本国内に流通しはじめた。

お金のことを日本では「貨幣」というけれど、中国では「貨銭」というんだ。この「幣」と「銭」は、もともと意味合いがちがっていたんだ。

日本の「貨幣」の「幣」は、神社の「みてぐら」のことで、神に捧げた布なんだね。これは私有物を離れた公共の「神聖な財」とされてきた。日本の古代貨幣は、寺院や神社に捧げる供物の代わりをしてきたんだ。だから、神にお賽銭(さいせん)を捧げたり、貨幣を寺院の柱の下に、寺院がいつまでも続きますようにという、まじないとして埋めたりしているんだな。

そこに洗練された宋銭が通貨として入ってきて、それまでの日本人の貨幣の考え方がゆらいだんだ。13世紀ごろに書かれた歴史書の『百練抄(ひゃくれんしょう)』には、平家全盛期の1179年6月の記事として、「近日、天上天下、病悩(びょうのう)し、銭の病(ぜにのやまい)と号す」とある。このころ、日本中が病に悩んでいるが、それは「銭の病」と呼ばれているというんだ。

では、宋銭が流通すると、なぜ「銭の病」がおきるんだろうか? それは、平安時代とは、国家により貨幣と物品の交換レートがきっちりと定められていた経済体制をとっていた時代だったからなんだ。

平安時代の京都では、左京、右京に市(いち)が開かれていた。その市を管理する仕事を定めた法律では、毎月1度、さまざまな品物の交換レートを記した帳面を作成し、太政官・京職(京都の町を管理する役場)・市司(市を管理する役場)に保存することが定められていた。市での交易はこれにしたがって行われていたんだ。諸国でも、農民から交易によって品物を徴収するときの交換比率を定めていた。これが平安時代の経済政策の根幹になっていたわけだ。つまり商品に自由な値段をつけることを禁じた、統制経済だったんだな。

平安時代の前期まで、律令政府の下では皇朝十二銭という貨幣が発行されたけれど、銅が不足し、物品の交換の量に見合うほど、十分に供給されなかったんだね。そこで、荘園や公領から貴族や政府に支払われる租税を、貨幣の代わりに用いたんだ。その租税がセイゴオ先生にあったように東国は絹、西国は米だった。これをもとにそれぞれの交換レートを定め、政府が管理する市で交易をさせたんだな。政府が発行を止めたため、わずかに流通していた日本の貨幣は、そうなると仏や神に捧げる神聖な財貨としての性格を強めることになった。

しかし、960年、宋王朝が中国を統一し、宋の銭貨が、前回に話したような九州各地の貿易拠点を介して流通しはじめると、状況は一変したんだ。輸入品へのあこがれが高まるにつれて、それらを手に入れるためには大陸の通貨である宋銭を用いた方が便利になった。すると、日本各地で生産される産品も、輸出品からはじまって、だんだん一般的な品物まで、宋銭で売り買いされるようになってきた。この宋銭は、日本の古来の貨幣に対して、「今銭」(いまぜに)と呼ばれていたんだな。

今銭は、流通しはじめたころは、日本古来の貨幣とはちがって、外国から買ってきたものだから、米や絹と並ぶ交換の媒体に適した物品とみなされ、あまり問題にされなかった。しかし、宋銭が圧倒的に多くなると、銭を多く所有する人が品物を多く買えるようにもなり、価値を一定にした政府の経済政策が機能しなくなってくる。それに神仏と人間を媒介する貨幣の側面も失われてきた。貨幣を私有物の交換の媒介としてしまうことは、神仏のぼうとくとも思われたんだな。

外国の通貨である宋銭が流通した理由には、その圧倒的に優れた品質もあった。宋銭は、贋金(にせがね)を防ぐために、額面の数倍もの価値の青銅を用いていたんだ。宋王朝は、それほど高価な貨幣を発行しても、商業が発展すれば、貨幣を発行する費用以上に国家の収入が増えると考えていたわけだな。

このような宋銭を、日本で流通させる元締めになった平氏は、まるで造幣局をにぎったようなものだったんだ。平家は宋銭で何でも買えるけれど、貴族は荘園からもたらされる米や絹を宋銭に換えないと、物品を購入できなくなる。これに対する貴族の反発は大きかった。

「銭の病」という言葉が記録された1179年、法律を明らかにする明法博士(みょぼうはかせ)でもあった中原基広(もとひろ)は、「宋銭はだれかが鋳たのではなくても、民間で鋳た違法な貨幣と同じ」として、使用の停止を求めている。しかし、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉したほど、権力を拡大している。宋銭の使用禁止令は出されず、ますます宋銭が市場にあふれた。こうなってくると開拓領主である関東の武士たちも、米や絹と宋銭のレートが不安定になって、困ってくる。この後すぐに起こった源平の争乱の背景には、こんな経済の問題も働いていたというわけなんだな。


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