鴨長明が『方丈記』を完成したのは、1212年、鎌倉幕府が成立してから、およそ20年後のことだったんだ。長明は、12世紀の世紀末の貴族の世から武家の世へと転換する大動乱の時期を生きたわけだな。しかし、その人生は、挫折に次ぐ挫折だったんだ。その間に、院政が強力な権勢と豊かな財政によって築きあげたきらびやかな京都の市街も、大火、地震、戦乱によって、すべて灰燼(かいじん)に帰してしまった。そうした中で書き上げられた『方丈記』は、実は日本人の新しいライフスタイルを提案していたんだな。今回は鴨長明の人生の出発から話してみよう。
そもそも、長明の人生は挫折にはじまったといっていい。セイゴオ先生が教えてくれたように、京都の下鴨神社のトップの家柄に生まれ、幼少のころから才気をあらわし、保元の乱のときの二条天皇の中宮(後の高松院)にかわいがられ、応保元年(1161)、7歳にして中宮から昇殿が許される従五位下の位を与えられた。長明は一種の天才少年だったわけだな。
長明は弟に神社をまかせ、宮廷での将来は約束されているように見えたけれど、二条天皇は親政をめざして後白河法皇と対立してしまう。そして、まだ23歳の青年だった二条天皇は、とつぜん病死してしまい、長明は出世の望みを絶たれたんだ。そこで、和歌や琵琶の道に打ち込んで、人生を切り開こうとしたけれど、最大のパトロンであった高松院も、1176年に亡くなってしまった。この前後から、京都の崩壊がはじまったんだ。
『方丈記』の「ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」は、深い無常の哲学をあらわしている一方で、同じような人間の社会が続いているようでも、昨日と今日ではまったくちがってしまうという、リアルな現実の変化をふまえていたんだな。
『方丈記』がこの世のはかなさを表すために記した平安京の5つの災害と事件はいずれも、長明が20代後半のころにおこった出来事だった。これらの天変地異と平行して、源平の争乱がはじまった。『方丈記』は災害の一つをこう記している。
「その中の人、現(うつ)し心あらむや。或(あるい)は煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或は焔(ほのお)にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、から(ろ)うじて逃るるも、資財を取り出(い)づるに及ばず。七珍万宝さながら灰燼(かいじん)となりにき」。
「現し心」とは「現実感」のことだな。燃えさかる火の中の人は、生きているという現実感も失い、倒れていき、やっと逃れても、蓄えた財産などを持ち出す余裕はなかったというわけだ。
こうした首都壊滅を若き日に体験した鴨長明は、「無常」を深く心に刻みこまれたんだな。そして、この天変地異の中で、財産や地位といったものがいかにはかないものかを実感したんだ。国家の権力を誇示していた大極殿や官庁も、たった一夜で焼失してしまい、白河殿も地震の一揺れで倒れてしまう。
そんな立派な住居や財産、地位に価値の基準を置いて人生を設計し、あたふたと権力者にこびへつらったところで、何になるだろうか? それは、実はとても危険で、人間を不幸のどん底におとしかねない。むしろ人間は、みすからの好みを実現するために、最低限の条件を整えて、自立して生きるべきではないのか? このような疑問に答えて、考え出されたライフスタイルが、「方丈の住まい」での生き方だったんだな。
この方丈の住まいは、貴族の寝殿造りのような儀礼や祭りを中心した住まいや、職業によってかたち作られた農民や職人の住まいなどとはまったくちがっていたんだ。それは、人間がただ一人で、浄土への往生を願いながら、文学や音楽、花鳥風月に遊んで生きられる空間だったわけだ。この『方丈記』が提案した、新しいライフスタイルのモデルは、身分を問わず日本人の間に侵透していき、現代人もそこに日本らしさを感じている清廉な和風のたたずまいというものを作り出していったんだな。
【お知らせ】セイゴオ先生のにっぽんXYZの休載とともに、タカハシ君のうんちく日本史も今回でしばらくお休みをいただきます。たくさんのご意見をいただき、ありがとうございました。
そもそも、長明の人生は挫折にはじまったといっていい。セイゴオ先生が教えてくれたように、京都の下鴨神社のトップの家柄に生まれ、幼少のころから才気をあらわし、保元の乱のときの二条天皇の中宮(後の高松院)にかわいがられ、応保元年(1161)、7歳にして中宮から昇殿が許される従五位下の位を与えられた。長明は一種の天才少年だったわけだな。
長明は弟に神社をまかせ、宮廷での将来は約束されているように見えたけれど、二条天皇は親政をめざして後白河法皇と対立してしまう。そして、まだ23歳の青年だった二条天皇は、とつぜん病死してしまい、長明は出世の望みを絶たれたんだ。そこで、和歌や琵琶の道に打ち込んで、人生を切り開こうとしたけれど、最大のパトロンであった高松院も、1176年に亡くなってしまった。この前後から、京都の崩壊がはじまったんだ。
『方丈記』の「ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」は、深い無常の哲学をあらわしている一方で、同じような人間の社会が続いているようでも、昨日と今日ではまったくちがってしまうという、リアルな現実の変化をふまえていたんだな。
『方丈記』がこの世のはかなさを表すために記した平安京の5つの災害と事件はいずれも、長明が20代後半のころにおこった出来事だった。これらの天変地異と平行して、源平の争乱がはじまった。『方丈記』は災害の一つをこう記している。
「その中の人、現(うつ)し心あらむや。或(あるい)は煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或は焔(ほのお)にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、から(ろ)うじて逃るるも、資財を取り出(い)づるに及ばず。七珍万宝さながら灰燼(かいじん)となりにき」。
「現し心」とは「現実感」のことだな。燃えさかる火の中の人は、生きているという現実感も失い、倒れていき、やっと逃れても、蓄えた財産などを持ち出す余裕はなかったというわけだ。
こうした首都壊滅を若き日に体験した鴨長明は、「無常」を深く心に刻みこまれたんだな。そして、この天変地異の中で、財産や地位といったものがいかにはかないものかを実感したんだ。国家の権力を誇示していた大極殿や官庁も、たった一夜で焼失してしまい、白河殿も地震の一揺れで倒れてしまう。
そんな立派な住居や財産、地位に価値の基準を置いて人生を設計し、あたふたと権力者にこびへつらったところで、何になるだろうか? それは、実はとても危険で、人間を不幸のどん底におとしかねない。むしろ人間は、みすからの好みを実現するために、最低限の条件を整えて、自立して生きるべきではないのか? このような疑問に答えて、考え出されたライフスタイルが、「方丈の住まい」での生き方だったんだな。
この方丈の住まいは、貴族の寝殿造りのような儀礼や祭りを中心した住まいや、職業によってかたち作られた農民や職人の住まいなどとはまったくちがっていたんだ。それは、人間がただ一人で、浄土への往生を願いながら、文学や音楽、花鳥風月に遊んで生きられる空間だったわけだ。この『方丈記』が提案した、新しいライフスタイルのモデルは、身分を問わず日本人の間に侵透していき、現代人もそこに日本らしさを感じている清廉な和風のたたずまいというものを作り出していったんだな。
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