何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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『万葉集』が残した言葉の力

2004年09月20日 | 歴史
万葉仮名で日本語表記の第一歩を切り開いたのが、『万葉集』なんだな。そこには日本の心が歌われているというけれど、それって実際どんな内容だったんだろうか? 『万葉集』の最も古い歌から見てみよう。

「君が行き 日長(けなが)くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」
から始まる、恋の歌4首が『万葉集』の中で一番古いとされる歌だ。5世紀初め、倭の五王のトップを切る倭王讃(さん)とされる仁徳天皇の皇后、磐姫(いわのひめ)の歌なんだ。
「君」とは仁徳天皇。あなたが出かけてずいぶん日にちがたちましたが、迎えにいきましょうか、待っていましょうか、と歌っている。

磐姫は葛城襲津彦(そつびこ)の娘だった。襲津彦は朝鮮半島で暴れまわったことで知られ、倭国を国際舞台に登場させた人物でもあった。襲津彦の勢力を背景にした磐姫は、『古事記』や『日本書紀』(この2つをまとめて「記紀」という)では、天皇にやきもち焼くわがままな女性として描き出されているんだ。

記紀が示す天皇をトップとする国家の理想からすれば、天皇にやきもちを焼くなんてちょっとすごいことだね。けれども、夫を思いこがれる磐姫の恋の歌を取り上げる『万葉集』は、たとえ皇后であっても、感情をあらわすことが大切にされているんだ。また、押さえきれない心が、歌になるということも伝わってくる。

ここで『万葉集』の巻頭に挙げられた歌をみてみよう。それが、あの日本で一番古い鉄剣の文字に書かれていたワカタケルの名前で知られる、雄略天皇の有名な長歌だな。
「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
この丘に 菜摘ます児 家告らせ 名告(の)らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて
 われこそ座せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」

何の歌か、全然わかんないって? これは、春の若菜つみの風習を題材に歌ったもの。古代には冬の間、青い野菜がなくて身体が不調になるため、春に野草を食べることはとても大切だった。それが重要な行事とされて、野草には復活の霊魂が宿り、衰えた身体を癒すと考えられていたんだな。いまでもこれは、春の七草をお粥(かゆ)に混ぜて食べる「七草粥」に残っているよね。

で、このような霊魂が宿る若菜を摘むのは少女たちの役割だったんだ。自然界の霊魂を扱うことができるのは女性と考えられていたからね。これは男性陣としては、絶好の出あいのチャンスでもあった。なんと天皇まで若菜摘みの見物に出かけて、若菜を採る娘に「私のもとに大和の国がひれふすんだぞ、名前も家も教えるぞ」と、声をかけた。上の歌の意味はそういうことだ。そして、このような思いを公然と言葉にすることを「言挙げ」(ことあげ)というんだな。

『万葉集』が収録する「柿本人麻呂歌集」に、「芦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は 神ながら言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞわがする‥‥‥」という長歌がある。倭国では神々が世界を動かすので、本当は言挙げしないけれど、自分の心が押さえられないことが起こったら言挙げする、と歌っている。言挙げした言葉の形こそ、前回説明した、言霊が助ける「日本の歌」というわけだね。

言挙げは、国際状況や政治の状態に対してすることもあるけれど、やはり恋を伝える「言挙げ」が最も多いんだ。この時代の結婚は、男女の家系が結ばれることでもあったから、まず家や名前を告げる「言挙げ」をしなくてはならなかったんだね。雄略天皇の歌は古代の恋の作法とともに、「言挙げ」の意義、「日本の歌」の意義をも伝えていた。

この磐姫と雄略天皇の歌は、『万葉集』の中でも極端に古いんだ。いわば倭の五王時代の最初と最後を示して、日本の歌の伝統を象徴させているともいえる。その次に古い歌となると、7世紀の舒明(じょめい)天皇の歌がある。香具山(かぐやま)に登って、国見をする歌で、国見は天皇が必ず行うべき儀礼だった。でも、それは藤原京、奈良京へと都が移ると失われていってしまうんだね。

『万葉集』の歌のほとんどは、この後の天智天皇の時代から奈良時代中ごろまでの100年間に詠まれるわけだ。この時期ってどんな時代だったか、覚えているかな? 地方豪族の分権体制から中国風の中央集権体制へと大転換したんだったね。古代の豪族たちが、この間に次々に滅びていった。でも単に豪族が滅ぶという政治の問題だけじゃなかったんだな。

映画「ラストサムライ」で描かれていた時代の変化と同じように、古代豪族の滅亡は、それまでの言葉や風習、文化を担う人々が失われる事態を招いたんだ。『万葉集』はそんな流れに抵抗して、日本の言葉の文化を後世に伝える役割を担ったんだね。『万葉集』を編集したのが、大伴家持だった、というのも象徴的だ。大伴氏は古来の天皇家直属の軍隊を率いた家系であると同時に、言葉という歌を集める役割も果たしていた。

えっ、歌を集めるって、なんだって? 和国が日本列島を統一するのには、実は、武力だけでは足りなかったんだ。細長く、地域によって言葉が違う日本では、古代の戦争は言葉の戦争でもあった。支配の力を発揮するには、相手の言葉に象徴される文化を吸収して編集する必要があったわけだ。だから、軍隊である大伴氏は、言葉を狩る一族でもあるんだな。『万葉集』にある「防人の歌」は、755年、大伴家持が東国から難波に連れてこられた防人を閲兵し、彼らに献上させた歌だった。それが服属をさせるあかしだったんだね。

平安初期には読めない文学でもあった、とセイゴオ先生が言っていたように、『万葉集』は、万葉仮名の解釈をはじめ、解明されていない部分も多い。でも、こうして日本文化の古い姿を伝え、また、言葉のもつ力の大きさを象徴する存在だったので、以降の日本の歴史の中では、たくさんの学者や文化人が取り上げるメディアとなって、現在に伝えられていったというわけだね。