古社を訪ねて


大阪・奈良の『古き神々との出会い』

51 中臣須牟地神社 

2007-08-18 | 摂津国

大阪市東住吉区住道矢田に鎮座する中臣須牟地神社
駐車場なし
大変由緒ある神社
式内社

中臣須牟地神社


老樹の上には何やら祀られている。

御祭神
中臣連の祖神住道神となっているが系譜は不詳である。
住吉津より喜連に通じる沿道に祀られた道路守護の神ではなかろうかとの説もある。


本殿の周囲は土塀が残されている。

由緒

平安時代に定まりました延喜式と申す規則によりますと、当社は勅使のおまいりなさっておられました大社であることが明らかであります。これは戦前の官幣大社と同格でありまして、当代一流のお宮でございます。もちろんこの規則のきまるずっと前から堂々たる大社であったはずでございます。南北朝時代から室町時代にわたる長い間の戦乱によって、しだいに当社の御由緒は忘れられてしまったようです。

当社は、中臣(ナカトミ)氏の祖先であり神武天皇にお仕え申された天種子命(アメのタネコのミコト)をはじめ、その御一族や御子孫のかたがたが、二千数百年以上もの昔から在住せられた誠に由緒ある地の神社でございます。大化改新には、この中臣氏から藤原鎌足公があらわれて大きな手柄をお建てになりました。また御子不比等(フヒト)公をはじめ御子孫の中には、奈良から京都へとつねに天皇さまのおそばにお仕えして、歴史上重要な役目をはたされたかたがたが多いのであります。藤原不比等公は勅命をお受け担って、大昔から中臣氏の根拠地であった当地に、御先祖をあわせまつられたのでございます[社記]。もちろん中臣氏は、朝廷の祭祀をうけもつて来たのですから、ごく古い時代からここでお祭りをおこなうていたのは明らかであります。

考古学の研究によりますと、当地は、畿内での弥生式農耕文化の発祥地であり、弥生式文化時代全体にわたる広大な住居地であります。ここに発達した農耕文化は、紀元前後には畿内全体に広がり、三世紀ごろには日本全体に影響したといわれます。祟神天皇はここにわが国最古の依網(ヨサミ)池を作られ、埀仁天皇は最大の狭山(サヤマ)池をつくられて、年々豊作が続き、やがて朝廷のいきおいは朝鮮半島にまで及びました。応仁天皇の御代に、大陸の人達が、本国の戦乱をさけて平和な我が国に新しい大陸文化を伝えました。わが国内は、神をまつる固有の信仰で固く結ばれ幸せに暮らしていましたから、その人たちも当社の神酒を賜うて、神にかよう穢(ケガレ)を祓(ハラ)いました。[延喜式]忌部記文にも、「スムチ(当社)の神酒を賜うて穢を祓わない者は日本人ではない。」と申しております。





鎮座地住道矢田(すんじやた)について
住道と矢田の合成地名。
大東市に住道があるがそちらは「すみのどう」と呼ぶ。
神社は住道神を祀るが須牟地は住道のことだろう。
住道 スミチ→スムチ→スンジと転訛
矢田 矢田庄からの地名


神社の前は道路が横切っている。
前の空き地も縄が張られ木々もあり昔は、学校付近まで神域だったのだろうか。

ひとこと
鳥居は2つあり普段は正面の鳥居は閉められているので参拝は、西側の鳥居から参拝することになる。
裏道に使うのか頻繁に自動車の往来があって、参拝に気が散る。
由緒ある神社だけに残念だ。

「郷土探訪」