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ヤンディーズ

現在闘病中で「病んでいる」ボーカル&ギタリスト、「太郎」の独り言

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

2020年08月03日 | プロレス
10年程前、話題になったこの本。
ノンフィクション賞等、2つの賞を受賞してたんですね。
当時読みたかったけど、ハードカバー×2の上下巻は金銭的に辛かった。
地元の図書館でも検索しても見つからない。
地元の本屋さんは見事に壊滅状態、私は電子書籍等持っていない。
久々にプロレス関係も置いてあるフロアの広い本屋でこの本が
文庫本で売られていて、その日の全財産注ぎ込み購入しました。
コレ、図書館で借りれても今の私の読解力では2週間という返却期間では
返せない内容でした。
最初下巻だけ買おうとしたのですが「東條英機を暗殺せよ」という章にビックリし
上下巻購入しました。
コレは「実録!木村政彦」でしたね。

東京オリンピック無差別級金メダリストのアントンヘーシンク、
ミュンヘンオリンピック重量級、無差別級金メダリストのウイリアムルスカも
木村の前では「話にならない」と、木村を知る多くの柔道家達が証言してますし
現に、東京オリンピック前に木村の所へ出稽古に来ていた
東京オリンピックではメダリストになる外国人選手を手玉に取り50歳超えた
170cmの木村をヘーシンク対策でエントリーさせたい、という話が出た位、
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた鬼の木村。
戦後ブラジル遠征でブラジルの英雄、エリオグレーシーを子供扱いし(エリオ弁)
タップしないエリオの腕をやむをえなくヘシ折り
後に実子ヒクソン、ホイラー、ホイスと一大センセーショナルを起こすグレーシー柔術で
「マサヒコキムラは我々にとって特別な存在だ」とUFCを制したホイスが
発言する程の存在、後に「キムラロック」と呼ばれるアームロックも
グレーシー側が敬意を持って命名したという
乱取りで木村が大外刈りを繰り出すと脳しんとう者続出と
しかし木村の真骨頂は寝技だった、そして剛柔流、松濤館等の空手に6年通い
敗戦後GHQの米兵に柔道教え、ボクシングを習うという
戦前、戦後から総合格闘技を実践していたとは。
打撃無しルールで戦ったエリオ戦の映像は木村に負けたグレーシー側が公開したと。

木村政彦vs.エリオ・グレイシー/Masahiko Kimura vs. Hélio Gracie


と、本編に辿り着くまで、これ程長文になるのは
それだけ細かに資料探しと、プロレス界では名の知れている
遠藤幸吉やユセフトルコ達にも取材し、
柔道経験者の筆者がブック破りし、鬼の木村にセメントで無残にKOした事を
許せない思いが強かったからでしょう。ゴング格闘技誌で3年かけて連載
木村が没した時27歳の筆者が45歳迄取材、執筆を続けた執念というか。

力道山はビジネスでも表の大物、裏の大物、錚々たる面子をバックに持ち
実業家として世話になった人間をトコトン裏切り、横暴になる上
命も狙われたし、実際最後は知り合いの暴力団構成員を酔った勢と殺す勢いで
上からぶん殴られそうになり命の危険を感じた構成員は下から短刀で刺し、
この怪我が原因で後に命を落とす事はプロレスファンの方々には
承知の事実ですね。

ここまで書くのに力尽きかける程濃密な内容、
実際にvsエリオ戦、vs力道山戦になるのは下巻からですからねぇ‥
正直、上巻はややこしくて文が前を進まなかったです。
私は剣道経験者なので剣道について濃厚に書かれているならもっと早く
読む作業が進んだのですが。
柔道、柔術の歴史、登場人物
貧しい子供時代の仕事が木村の体を作る幹となった事、
師匠、牛島辰熊との鉄の師弟関係、そして後の関係破綻、牛島の嫉妬、
微妙ながら力道山敗戦後、牛島が木村の関係改善、拓大師範として復帰させる事、
木村の生い立ちから全国大会を数回連覇、昭和天皇の前で行われる
天覧試合を鉄の師弟関係で制覇する事、
関東軍の石原莞爾の考えに共鳴し思想家になる牛島と違い
全盛期に赤紙召集された木村は二等兵なのに上官をビビらせ、
おまけに寝ている上官の股間を弄んだという、当時の軍規からしたら
考えられない行い、酒を4升は呑み女を抱きまくる
豪放磊落な木村に牛島が鉄砲玉として石原莞爾と反目する
内閣総理大臣、陸軍大将、総司令官の東條英機秀樹を
自爆テロで暗殺する鉄砲玉になる予定だった!と驚く事ばかりです。

しかし、登場人物が多い上、その人達の経歴迄、細かに書かれているので
集中力が欠けて来る‥。私にとっては久々に難易度が上がった本かも。
(頭良くなく読書家では無いので)
戦前柔道として一番驚いたのが、講道館、武徳会、高専柔道と三派有った事
コレが驚きました。特に高専柔道なんかは後にブラジリアン柔術
コンデコマ事前田光世が広めた柔術がヴァリトゥードへと繋がるモノですね。
木村は武徳会に近いですが阿部謙四郎に敗れた辺りかな?
高専の寝技修得に熱心になる事、
そして戦後GHQにて多くの武道が禁止され柔道では講道館がスポーツと訴え
講道館は生き残り、他の二派は崩壊させられた事。
初めて知った事なので驚きでした。
フィジカル面で勝る白人優位なルール変更した国際柔道連盟に憤慨した私ですが
深く柔道の歴史を辿ると、負けたら切腹!の武術だった事でしたね。
段位は有っても牛島と木村は講道館から疎まれがちだった事。
コレ、基本ノンフィクションで書かれているし、読まれた方も沢山いらっしゃると思いますが
木村の事も全て良くは書かれず、批判も書かれている事ですね。

娯楽に乏しい戦後、拳闘、柔拳がある中、プロ柔道団体が立ち上がるも
宵越しの金は持たない乱脈経営で頓挫し、主催の1人師匠牛島に背き
海外にプロ柔道、プロレスのリングに上がって海外遠征で稼ぎ
結核の妻へ当時の日本人に手が届かない高額な治療薬を送り
周りの患者迄治ってしまったという‥。
私の祖母が戦後、結核で肺の半分切除、そしてもう片肺は1/3切除し障がい者として
生きたので(それでも死なず手術受けれた事でも高額なのに)
そこからプロとしての格闘家人生が始まり、伝説のエリオグレーシー戦へと繋がる事。
朝鮮民族出身の力道山と大山倍達がアメリカでプロレス修行するも
力道山と大山は反りが合わず、出自が違えど大山は木村を兄の様に慕い
力道山の卑怯な試合ルールを心配し、敗戦後、木村は力道山と手打ちさせられ
おまけにその事が力道山に利用された事で大山が絶縁した事。
本家に行けば「空手バカ一代」の漫画が有ると思うのですが
私、大山はてっきり力道山サイドの人なのかと思っておりました。

相撲では朝鮮人である事から横綱になれなかったと憎む
力道山が大恩の有る人達をバックに(後に縁切)日本プロレスを立ち上げ
対抗し木村とブラジルへ行った山口利夫が全日本プロレス連盟を立ち上げた事。
そのバックの面子を見ると、私でも知っている表裏の大物が名を連ねている事に驚きました。
シャープ兄弟で力道山の引き立て役にされ九州で国際プロレスを設立するも
「力道山の様に強くなれ!」と観客から言われた事は屈辱ですよね。
木村にもI会という巨大なバックが有るのに、怒らせてしまうとか
相変わらず磊落な木村が力道山への日本一決定戦への挑戦状を出すというストーリーを
策士で如才なく抜かり無い計略家な力道山との試合に
上手く乗らされ、木村だけ引き分けの念書書かされ、力道山にも要求するも
のらりくらり逃げられ、木村の当て身(打撃)は禁止、
力道山の「怪我はさせない」という口約束で詰めも甘すぎ、
おまけに試合後、木村の念書をマスコミに公開し
「引き分けを要求された、木村は汚い奴だ!」と極悪な手段。
策士は抜かりなくセメントに備える一方、
プロレスと思い寝台急行で上京する車中で大酒を飲み
試合前もロクに練習せず試合前日もホテルで日本酒飲み
セメントになる事も頭に入れつつも油断しまくりのコンディションでリングに上がったという
木村に反し力道山は勿論セメントを大きく意識しトレーニングしていたという。
全盛期の学生時代、170cmだけどゴリラの様な身体の写真を見て
驚きましたね。そんな木村は練習せず酒呑んだ悪いコンディションで
vs力道山に臨んでしまった事はホントに痛いですね。
卑怯な力道山の騙し討ちに困惑するも、最後半径50cm血の海になったという
其処までの凄惨な喧嘩試合は小学生の時見た力道山vs木村の
白黒テレビ映像では分からなかったです。当時は当然力道山が制裁したと思っていましたし。


1954.12.22 プロレスリング日本選手権 "昭和の巌流島"


この映像ですね。しかし実は力道山にとって都合悪いシーンはカットされ
実際の試合を生で見たのは観客、街頭テレビの群衆
凍り付いた喧嘩試合をブラウン管に乗せたのですもんね。
生で観戦した実子、プロレスラーの百田光雄は5歳だったそうですが
相当な斬撃シーンで、興奮したママ帰宅し、殺人予告した電話も有った事もあり
田中米太郎をはじめ門下生4人に一晩中、ライフル銃で迎撃する様命じたと。
明らかにDV家庭だったという百田光雄は兄弟共に布団にうずくまり、
力道山の暴力に怯えて一晩過ごしたという話でしたし。
上の動画では分からない所も多いですが頭蹴りまくった所には
頸椎を踏み抜くストンピングも有った様で、怪我では無く命奪いますね。
プロレスには攻撃していい所と悪い所、裏のルールが沢山あり
ほんの一部しか存じませんが明らかに危険行為ですね。
後に頸動脈への手刀が決定打となったと記憶のハッキリしなかった木村も述べ
力道山伝説の「空手チョップ」という必殺技が日本国民を興奮させたのですが
実はこめかみへの右ストレートが致命打だったと。
筆者は力道山の卑怯さを訴えたかった様ですが
中井佑樹、高坂剛等、後の総合格闘家達がセメントでも
互いに柔道着を着ていない試合で体の調整を怠った悪コンディションの中
必ずしも木村優位とは言えないという感想に相当胸を痛めた様で。
ヒクソングレーシーにこの映像を見せたら斬撃シーンにヒクソンが目を背けた!と。
力道山は怪物ですが、暴力、横暴、猜疑心の塊、
利用して捨てる、自殺者迄出る、裏社会から命を狙われる
後から出てくる力道山の実態。日本にプロレスを広めた最大の功績者は
政治家の先生達の様に手のひら返しの様にのし上がるも
最後、顔見知りの構成員の凶刃で致命傷になると。
屈辱の付き人時代を過ごした猪木、住み込みの山本小鉄も猫がネズミを痛ぶる程の暴力をふる
力道山に怯えて、ユセフトルコまでも「あんた畳の上で死ねなくなるよ」
そう忠告した事、可愛がられた馬場でさえ「人間として良い所は無かった」そう言わせる位。
(ギャラの高い外国人レスラーを呼ぶ為、アメリカで成功していた
馬場のギャラを抜きまくってそうで)
しかし、北澤幹之氏の話では力道山は「若いモンに可哀想な事をした、治ったら優しくしなければ」
「金も名誉も要らないから命だけは助かりたい」そう豊登に語っていたそうな。
今回「ありがとうTV」で最後の力道山夫人、田中敬子さんの90分に及ぶ
インタビュー番組を観ましたが、まあ、綿密に策を練られ口説き落とし
力道山の優しさも語られていました。北澤氏もグレート小鹿も
二人っきりになれば物凄く優しい人だっと、来日前の
家族思いな優しい一面が有ったそう。

39歳という(謎の多い戸籍によると)人生を終えた力道山に
75歳迄生き続けた木村。鬼の柔道王の知名度を地に落とされ
後援暴力団が復讐するという事を断り、自身は
リベンジを望むも相手にされず短刀を持ち、力道山の命狙い
思い留まり、頭に「殺」を念じたという人生、
力道山が没しても、あの屈辱は生涯付いて回ったでしょうね。
ただ、シャープ兄弟戦、力道山vs木村の昭和巌流島対決が無ければ
(一回マスコミはこの斬撃で引いたそうですね)今のプロレスという
大衆娯楽が生まれなかった事事実と、そのプロレス繁栄為に
利用された木村を始め数多い人々。裏社会の大物にも
手の平返しする程傲慢なれる地位を得て実業家としての成功、
後に政治家への転進と絵を描いていたであろう力道山の野望が
志半ばで途切れた事。
木村は裏切った恩師、牛島の力添えも有り拓大柔道部へと復帰し
チームを全国優勝に導き、愛弟子、岩釣兼生を育て上げ
空手、ボクシングの修行をさせ本場、旧ソ連のサンボ選手権で優勝、
昭和50年代、地下格闘技で優勝させ、力道山戦の慙愧の思い。
早すぎた総合格闘家の木村政彦。

木村サイドの本でしたが、私は高橋本を読む迄、騙し討ちと存じませんでした。
あの時のショックはプロレスとして相当、後を引きずりましたが
セメントだったら木村!とは言えない活字も筆者は苦しんで書いた様で。

この本を読んで色々、思い改めようと思う事も沢山ありました。
既に読まれた方達には只の素人の解説になってしまいましたが
私の現状とリハビリを兼ね(介護やコロナ鬱、脳と文章力の衰え)
久々に5000字を超える長文を打ちました。
最後まで読んで下さり、ありがとうございましたm(_ _)m

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プロレス対柔道の他流試合 (凸椪)
2020-08-04 13:30:40
リアルタイムでは知りませんでしたが、ビデオ映像で力道山対木村戦は何度か視た程度です。私がテレビでプロレスを視始めたのは、力道山時代の最末期で馬場や猪木は若手時代。遠藤幸吉や豊登、吉村道明、芳の里なんかが脇を固めていたのを覚えています。力道山は間もなく亡くなり、日本プロレスは短い豊登時代を経て、すぐに馬場がトップに君臨していましたが、猪木をトップに頂く東京プロレスはノーテレビだったので殆んど知りません(地元の新聞販売所でポスターだけ見掛けたことがあっただけ…)。力道山について書かれた書物はかなり読みましたが、木村正彦氏は自らの名前で著した『わが柔道』だけ。コレを読むまで世紀の巌流島決戦は、力道山の圧勝に終わったものと思い込んでいました。ビデオ映像だけでは、素人の私には試合の内幕までは読み取れませんでしたが、のちに『空手バカ一代』等で理解しました。表題の『木村正彦は~』も出版後間もなく、運よく図書館で借りて読むことが出来たものの、内容はあまり記憶にありません。木村氏は力道山戦に敗れたのち、すぐにプロレス界を引退したと、当初、考えていましたが、郷里の熊本で国際プロレス団を組織されたものの、興行的には(プロレス以前の)プロ柔道や柔拳試合の二の舞であえなく破綻して、海外に活路を求めて北アメリカを経てブラジルまで流れて、伝説のエリオ・グレイシー戦に辿り着いた件までは、まったくの想像外で、力道山戦からいきなり拓殖大学柔道師範に就任されたものとばかり思っておりました。
木村氏の著書では空手修行したのは、剛柔流ではなく、それ以前に大山倍達氏も門下にいた松濤館流だと書かれていましたが、木村氏は空手道でも師範代を務めるまでになっていたとありました。ソレが事実だとすれば、真剣勝負だったら力道山に後れを取ることはなかったかと思いました。ただ失礼ながら、両者とも「金と名声」を選択したために、力道山時代へとプロレス史の流れが行ったような気がして…!?
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凸樫さん (太郎)
2020-08-04 19:56:44
日本プロレス界の表立った記録の中で一番最初のブック破り、
高橋本が出るまでブックを存じなかった上、昭和29年の話ですから
橋本vs小川とは余りに時代背景が違い、関心深い且つ闇で
ブック破り前から色んな説が飛んでいたので、今回ハッキリとした形で読みました。
長編なんで今読み返す元気無いですが、松濤館ですね。剛柔流の流れと記憶有ったので。
後、エリオ戦は力道山戦前の昭和26年です。国際プロレスはシャープ兄弟戦後に作られるも
力道山戦の影響でダメになり、その後海外を放浪しブラジルで最後のヴァリトゥードに勝利し
拓大復帰したそうです。「わが柔道」はゴーストライターの手の様で
色んな詳細は今回の本の方が確実性が高いと思われます。
戦後復興果たしておらず、貧困も多くだからこそ裏表社会の人間も沢山絡み
大きな利益無しでは熱中したプロレスが繁栄しなかった上
それを強欲に手を入れ、利己主義的権力の座を得ようとした力道山と
対して木村はそこまで強欲では無かった違いがプロレス繁栄の犠牲になった、
今回、そう思いました。木村はこの後お金に困りましたが失った名誉とプライドを
この一戦で潰されました。この流れは力道山直系の猪木、高田、小川へ流れる様に思いました。
実業センスでは猪木は力道山に全く及びませんでしたが。

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