食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

トウモロコシ-ヨーロッパにやって来た食べ物(1)

2021-05-07 17:58:41 | 第四章 近世の食の革命
4・3 大航海時代にヨーロッパにやって来た新しい食
トウモロコシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(1)
今回から大航海時代に新たにヨーロッパにもたらされた作物について見て行きます。第1回目の今回は、コメ・コムギとともに世界三大穀物と呼ばれている「トウモロコシ」です。


(Andrey GrachevによるPixabayからの画像)

現在の全世界のトウモロコシの生産量は11億トンを越えていて、約5億トンのコメや約7億トンのコムギよりもずっと多く作られています。この理由の一つとしてあげられるのが、トウモロコシの利用用途がとても広いことです。

トウモロコシは人がそのまま食べたり粉にして食べたりする以外に、デンプン(コーンスターチ)やコーンオイル、コーンシロップなどの原料になります。また、家畜の飼料としてよく利用されており、トウモロコシを食べさせることで家畜を短期間のうちに太らせることができるため、近代畜産業では無くてはならないものとなっています。

ところで、トウモロコシにはたくさんの種類があります。例えば、私たちが野菜売り場で目にするのは「スイートコーン(甘味種)」と呼ばれるもので、その名の通り糖分が多いため食べると甘味を感じます。これ以外に、ポップコーンに使われる「ポップコーン(爆裂種)」や主に飼料となる「デントコーン(馬歯種)」、トルティーヤの元となる「フリントコーン(硬粒種)」、粉にしやすい「ソフトコーン(軟粒種)」、モチモチの食感がある「ワキシーコーン(モチ種)」などがあります。

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トウモロコシがメソアメリカで栽培化された後も南北アメリカ大陸で品種改良が続けられた。コロンブスが1492年にアメリカに到達した時には、今日知られている多くの品種が作り出されていたと言われている。

トウモロコシはとても優秀な穀物で、次のような長所を持っている。

・単位面積当たりの収量が高い(コムギの約2倍)。
・環境への適応性が高い(平均気温が15℃までなら生育が可能)。
・収穫や運搬、貯蔵が容易で、脱粒もしやすい。
・実(子実)だけでなく、茎や葉も家畜の飼料として利用できる。

このように優秀な作物をヨーロッパ人が見逃すはずはなく、コロンブスは1492年の最初の航海の時にスペインにトウモロコシを持ち帰っている。ちなみに、コロンブス船団の乗員の日記には「たいへん美味しい」という記載があるそうだ。

ところがスペインではトウモロコシはあまり受け入れられなかった。トウモロコシの奇妙な姿が敬遠されたからだと考えられる。一般的に人類は食べ物に対して保守的で、なかなか新しい食べ物を口にしないものなのだ。

それでもコムギなどの穀物がうまく育たない地域では、トウモロコシの栽培が急速に進んで行った。こうしてトウモロコシの栽培は16世紀半ばには地中海沿岸に広がり、16世紀末までにはイギリスや東ヨーロッパでも栽培されるようになった。

中でもイタリア北部の山岳地帯ではトウモロコシの栽培がとても盛んになった。この地域では「ポレンタ(polenta)」と呼ばれるトウモロコシ料理がその頃より名物になっている。ポレンタは粗挽きにしたトウモロコシの粉を1時間ほど煮て粥状にし、塩・オリーブオイル・バターなどで風味付けをしたものだ。食べる時にチーズやソースをかけることもある。同様の料理は南ヨーロッパや東ヨーロッパの山岳地帯に広く見られるらしい。

       ポレンタ

トウモロコシの栽培はヨーロッパだけでなく、世界中に急速に広がって行った。東地中海を支配していたオスマン帝国ではトウモロコシは早くから盛んに栽培されたという。また、アフリカには奴隷の食糧とするために16世紀初頭に持ち込まれたが、収量の高さから栽培する農民が急速に増えて行った。アフリカの高い気温がトウモロコシの栽培に適していいたのがその要因の一つだ。こうして1900年までにはアフリカ全土で栽培されるようになったと言われている。しかし、このアフリカにおけるトウモロコシ栽培の広がりが、現代で大きな問題になっているアフリカにおける人口爆発の一因となっているという指摘もある。

アジアへの伝播について見てみると、トウモロコシは陸路やポルトガルによるアジア航路によって伝えられたと考えられている。16世紀の前半にはインドや中国でも栽培されるようになった。

日本には1579年にポルトガル人によってフリントコーン(硬粒種)伝えられたのが最初とされている。その後、九州や四国の山間部など稲作に適していない地域で栽培され始め、徐々に北の地域へと広がって行ったと言われている。ただしフリントコーンは硬かったため、粉にして餅や粥に混ぜたりして食べることがほとんどだった。

日本でトウモロコシが本格的に栽培されるようになったのは明治時代初期のことで、北海道農事試験場がスイートコーン(甘味種)とデントコーン(馬歯種)をアメリカから導入したことから始まった。このため今でも北海道はトウモロコシの産地として有名なのだ。

サツマイモとカボチャ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(6)

2021-05-05 20:15:50 | 第四章 近世の食の革命
サツマイモとカボチャ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(6)
「芋栗南瓜(いもくりなんきん)」という言葉があるように、昔から日本人の女性の多くはサツマイモとクリとカボチャ(南瓜)が大好きと言われています。

例えばある調査では、85%の女性がサツマイモを好きと答えており、男性の65%を大きく引き離しています。また、好きな野菜を尋ねると、10~30代女性ではサツマイモとカボチャが上位2位を占めます。

今回は女性に大人気のサツマイモとカボチャについて見て行きます。すでにお話ししたように、どちらもアメリカ大陸が原産地となっており、ヨーロッパ人が新大陸に到達したのちに世界中に広まりました。

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・サツマイモ


サツマイモはヒルガオ科サツマイモ属の植物で、私たちは「塊根(かいこん)」と呼ばれる肥大化した根を食べている。この塊根には大量のデンプンに加えて、ビタミンCやビタミンEなどのビタミン類やカルシウムやカリウムなどのミネラル分が豊富に含まれているため栄養価が高い。また、食物繊維も多く、これは整腸作用や血中コレステロール値の降下作用などの健康効果を発揮する。

サツマイモには他の作物に比べてやせた土地でもよく育つという利点もある。この理由の一つが、空気中の窒素を栄養素に変換する窒素固定細菌がサツマイモの茎に共生していため肥料が少なくてすむからだ(逆に肥料をやり過ぎると葉っぱばかり茂ってしまう)。なお、窒素固定細菌の共生は、イネ、ムギ、サトウキビ、バナナ、パイナップルなどでも見つかっている。

サツマイモはやせた土地で育つことから、日本をはじめとして多くの国々で「救荒作物」として人々の命を救って来た。江戸時代には、サツマイモが栽培されていた南九州地方が飢饉の際に餓死者が少なかったことから、八代将軍吉宗(在職:1716~1745年)が関東での栽培を推奨した結果、天明の大飢饉(1782~1788年)で多くの人々の命を救ったと言われている。

サツマイモはメキシコからペルーにかけて紀元前3000年頃に栽培化されたと推測されている。サツマイモの祖先と考えられている野生種が「トリフィダ (I. trifida)」と呼ばれる植物だ。トリフィダは鉛筆くらいの細い根しか持っていないが、栽培化によって根にたくさんの栄養分が蓄積されるようになり、現在のようなサツマイモが生まれたと考えられている。

植物が栽培化される際によく見られるのが、染色体の数が数倍に増える「倍数化」という現象だ。ほとんどの動物や野生の植物の多くは同じ染色体を2本ずつ持っている「2倍体」と呼ばれる状態になっている。ちなみに人間も23の染色体を2本ずつ持っている2倍体の生物だ。倍数化とは染色体を2本よりも多く持つようになることを言い、植物ではよく見られる現象だ。

例えば、ジャガイモやコーヒー(アラビカ種)は染色体を4本ずつ持つ4倍体だ。そして、サツマイモは15の染色体を6本ずつ持つ6倍体である。一方、野生種のトリフィダは2倍体なので、サツマイモは栽培化によって3倍の染色体をもつようになったのだ。一般的に倍数化が起きると植物の大きさが大きくなるが、倍数化によってサツマイモの根の部分が大きくなったと推測される。

さて、中南米で誕生したサツマイモは紀元前1000年頃にポリネシア、ニューギニア、ニュージーランド、そしてインドネシア東部に伝わった。その経緯についてはよく分かっていないが、根などが海流で流されたか、鳥によって運ばれたか、あるいはアメリカの原住民が紀元前1000年以降に太平洋の島々に移住した時に運ばれたかのいずれかであろうと考えられている。

ヨーロッパへは15世紀の終わりにコロンブスがアメリカから持ちかえったと言われている。日本には1600年頃に中国から琉球に伝わったものが薩摩に導入されたというのが定説だ。

・カボチャ


カボチャはウリ科カボチャ属に属している。ウリ科の作物にはカボチャのほかにキュウリやメロン、スイカなどがある。ちなみに「Pumpkinパンプキン」という名前は、ギリシア語で「大きなメロン」を意味する「Peponペポン」に由来していると言われる。

なお、アメリカやカナダでパンプキンと呼ばれるのはハロウィーンで使われる皮がオレンジ色のものだけだ。日本で一般的な皮が緑色のカボチャは「Squashスクウォッシュ」と呼ばれる。

カボチャは紀元前8000~前6000年にメソアメリカで栽培化されたと推定されている。カボチャの栽培化はトウモロコシの栽培化よりも早く、メソアメリカでもっとも古くに栽培化された作物だと言われている。

カボチャの祖先と考えられる野生種は、小さくて硬く、苦味があるらしい。カボチャの栽培化は狩猟採集時代から始まったと考えられており、人類が時間をかけて美味しくて栄養価の高い品種を作り上げたのだろう。

メソアメリカで栽培化されたカボチャはその後アメリカ大陸に広く普及し、紀元前4000年のミズーリ川流域の遺跡や西暦前1400年頃のミシシッピ川流域の遺跡でも見つかっている。

アメリカ大陸では長い間、カボチャはトウモロコシとインゲンマメと一緒に同じ畑で栽培されていた。これは「三姉妹農法」と呼ばれ、こうすると三姉妹がお互いに助け合って収量が増えるのだという。

この農法では、トウモロコシを最初に育てて、ある程度生育したところで近くにカボチャとインゲンマメを栽培するのだ。すると、カボチャはトウモロコシの浅い根を保護するとともに、地面を覆うことで雑草を防ぎ、土が乾燥するのを防ぐ。また、インゲンマメの根には窒素固定細菌の根瘤細菌が共生しているため、空気中の窒素を栄養素として土の中に放出してくれる。一方、トウモロコシの丈夫な茎はインゲンマメのツルがからまる支柱となる。

アメリカ大陸の人々はカボチャを食料とする以外に、樹液を火傷の治療に使ったり、種子を利尿剤として利用したりしていたらしい。また、皮の部分を乾燥させ、穀物やマメなどを保管する容器としたり、乾燥させたカボチャの細片を織り込んでマットを作ったりした。

カボチャはコロンブスによってヨーロッパにもたらされた。日本へはポルトガル人が16世紀にカンボジアで育てたものを持ち込んだと言われている。このカンボジアから「カボチャ」の名がついたとされている。

ナス科の作物-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(5)

2021-05-02 18:52:25 | 第四章 近世の食の革命
ナス科の作物-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(5)
ナス、トマト、ジャガイモ、トウガラシは私たちの食卓によく上る野菜ですが、すべて「ナス科」に属しています。そして、このうちナス以外はみなアメリカ大陸が原産地となっています。

これらの新大陸の食材はコロンブスがアメリカ大陸に到達した以降にヨーロッパ人によって西洋に持ち込まれ、品種改良されながら世界中に広がって行きました。そして現在では各国の料理に無くてはならないものになっています。例えば、トウガラシの無い韓国料理やトマトが無いイタリア料理は想像できません。

今回は現代の料理には欠かせない新大陸のナス科の作物について見て行きます。

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ナス科植物は100属、2500種の植物が知られているが、主なものとしては食用となるナスやトマト、ジャガイモなどが属するナス属、トウガラシなどが属するトウガラシ属のほかに、商業的に重要なタバコなどが属するタバコ属、チョウセンアサガオなどが属するチョウセンアサガオ属、ペチュニアなどが属するペチュニア属、ホオズキなどが属するホオズキ属などが知られている。

ちなみにナス科はヒルガオ科とともにナス目に属しているが、ヒルガオ科にはアメリカ大陸原産のサツマイモが含まれている。

ナス科が生まれたのはアフリカとされている。以前は、プレートテクトニクス理論で現在のアフリカ大陸・南アメリカ大陸・インド亜大陸・オーストラリア大陸・南極大陸がひとまとまりの「ゴンドワナ大陸」であった頃にナス科が成立したという説が主張されていた。しかし現在では、各大陸に分離した白亜紀(約1億4500万年前から6600万年前)の終わり頃にナス科が誕生したのではないかと言われている。そして、アフリカから動植物の移動にともなって各大陸に広がり、それぞれの地域で独自の進化を遂げたと考えられている。

ナス科の代表のナスはインド東部が原産で、日本には奈良時代に中国を経由してもたらされたと考えられている。平安時代になると日本国内で広く食べられるようになり、江戸時代には野菜の中でもっともよく食べられる野菜になったと言われている。
それ以外の人類にとって重要なナス科の植物のほとんどのものがアメリカ大陸原産だ。ジャガイモについては既にお話したことがあるので、今回はトマトとトウガラシについて取り上げる。まずはトマトについて見て行こう。

・トマト
トマトは日本の家庭で購入金額がもっとも多い野菜であり、世界的にももっとも消費量が多い野菜だ。ちなみに、トマトを生食するのは日本人くらいで、他の国では熱を加えて調理してから食べる。



トマトの原産地はアンデス山脈の高地であるが、栽培は西暦700年頃からメソアメリカで始まったと考えられている。16世紀にスペイン人がやって来た時には、アステカ人によって栽培品種として確立されていた。野生種のトマトは果実の大きさが1~2㎝だが、栽培化によって3~5㎝と大きくなっていた。ちなみに、現代では10㎝以上のものが通常で、これはヨーロッパに渡った以降の品種改良によるものだ。

アステカの人々はトマトを「へそが付いたふっくらとした果実」と言う意味で「ジトマティル」と呼んだが、これがトマトの語源になった。アステカ人は、トマトには子を産む力を高める効果があると考えていたそうで、トマト料理を新婚夫婦への贈り物としたらしい。

アステカの記録には、現代のメキシコでも食べられているトマトを使ったサルサ(サルサとは料理やソースの意味)のレシピが残されている。例えばメキシコ料理でよく使われるソースの「サルサ・ロハ」はトマトにトウガラシなどの香辛料を加えたもので、その歴史はアステカ時代までさかのぼることができる。

トマトはスペイン人によってヨーロッパにもたらされるが、しばらくの間毒があると思われていたため主に観賞用の植物として栽培されていた。一般に食べられるようになったのは18世紀になってからだ。

・トウガラシ
ナス科トウガラシ属の主な栽培種には「アニューム」や「シネンセ」などがあるが、もっとも広く栽培されているのがアニューム種だ。アニューム種には「トウガラシ」や「タカノツメ」などの辛味種と、「ピーマン」「パプリカ」「シシトウガラシ」などの甘味種がある。



トウガラシやタカノツメなどの辛味種が辛いのは辛み成分の「カプサイシン」が含まれているからだ。カプサイシンが口の中に入ると痛覚神経が刺激されて「辛い感覚」が生じる。また、交感神経が活発化することで発汗が促進され、心臓の動きも激しくなる。そして、大量に摂取すると死亡することもある。

トウガラシの赤色が辛味の成分だと思っている人がいるが、それは間違いで、あの赤色は辛味とは関係のないカロテンの仲間(カロテノイド)の「カプサンチン」の色だ。赤いパプリカの色はこのカプサンチンのせいで、カプサンチンが少ないと黄色のパプリカになる。ちなみにピーマンは緑色をしているが、これは未成熟のためであり、成熟すると赤色や黄色などに変わるものが多い。

トウガラシが属するアニューム種の起源地はメソアメリカと考えられていて、紀元前6500~5000年頃と推定される地層から栽培種の跡が見つかっている。この品種(辛味種)はアメリカ大陸の各地で紀元前から栽培が行われて来た。1世紀頃の中央アンデスの遺跡からトウガラシの図柄が入った織物が発見されている。

シネンセ種の代表的な品種は、とても辛いことで有名な「ハバネロ」だ。シネンセ種の起源はアマゾン地域の低地帯と考えられており、そこからメソアメリカや中央アンデスに伝わって紀元前2000年頃から栽培されるようになった。


ハバネロ(Ted ErskiによるPixabayからの画像)

ところで、トウガラシなどの辛さの単位に「スコヴィル」が用いられている。これは人が辛味を感じられなくなるまで砂糖水でどれだけ希釈するかということを示していたが、現在では機械を用いた測定で決められている。ちなみにタカノツメは約5万スコヴィルで、ハバネロは約30万スコヴィルと言われている。

トウガラシはコロンブスによってスペインに持ち帰られ、品種改良とともにヨーロッパ全域に広がった。特にオスマン帝国の支配下にあったハンガリーで盛んに栽培され、「ハンガリー料理と言えばパプリカ」と言われるほどになる。