食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ルネサンスとは何か-ルネサンスと食の革命(1)

2021-05-20 23:17:59 | 第四章 近世の食の革命
4・5 ルネサンスと食の革命
ルネサンスとは何か-ルネサンスと食の革命(1)
「ルネサンス」は日本人になかなかインパクトのある言葉のようで、とある芸人コンビのネタとして使われたり、某会社の社名として使われたりしています。

歴史的にもルネサンスはとても重要で、近世以降にヨーロッパが大発展する先駆けとなったと考えられています。また、ルネサンスは食の世界にも重要な影響を及ぼしました。

今回は西洋の歴史を語る上で絶対にはずせないルネサンスについてざっと見て行こうと思います。

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ルネサンスとは、14世紀にイタリアから始まった「古代ギリシア・ローマの文化の復興」を目指した運動のことだ。大航海時代やプロテスタントを生み出した宗教改革とともに、ヨーロッパ近世の出発点となったと考えられている。

なぜ古代ギリシア・ローマの文化をよみがえらせようとしたのだろうか。
この問いに答えるためには、当時のヨーロッパの社会状況を知る必要がある。

中世のヨーロッパは暗黒時代と言われるように、文化が停滞していた時期だ。その頃は毎日を生き抜くのに精いっぱいで、それ以外のことに気を向ける余裕も無かったと思われる。

中世の生活環境はとても悪かった。かつて古代ローマで使われていた上下水道はゲルマン民族の侵入によって破壊され放置されたままで、自分たちの糞尿を目の前の道路に捨てるなどは当たり前で、非常に不衛生だった。

このためひとたび感染病が発生すると、またたく間に人々の間に広まって行った。14世紀にペスト(黒死病)で多数の死者を出したのも無理からぬことだった。

さらに領主や教会によって農民などの一般庶民は権利が大幅に制限され、自由がほとんどない社会でもあった。作物に重い税がかけられていたため食事も質素で、固いパンと野菜スープ、そして少しのワインを飲むだけだった。

中世の半ば頃になると、農業生産力が増大し、農村だけでは消費しきれない食料が生み出されるようになった。その結果、このような余剰品を売り歩く商人や生活必需品を作って売る手工業者が現れた。彼らは富を蓄えることで次第に力をつけて行った。そしてついに一致団結して地方領主から自治権を獲得し、自治都市を作るまでになる。

自治都市の中で特に大きく発展したのがヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェなどの北イタリアの都市だった。ヴェネツィアとジェノヴァは湾港都市であり、11世紀の終わり頃から始まった十字軍遠征によって地中海における人や物の移動が活発になった結果、香辛料などの地中海貿易を行うことによって大いに発展した。一方、フィレンツェは生糸や羊毛を輸入し、美しい生地や服にして輸出することで繁栄した。

これらの都市は周辺の農村に対する支配権も領主から奪うことによって小さな国家と呼べる規模まで発展する。なお、このような自治都市はコムーネと呼ばれる。コムーネは有力な業者団体(ギルド)から選出された代表が集まって合議を行うことで運営されていた。古代ギリシアやローマの共和政に近い形態である。

ところで、十字軍遠征はイスラム勢力との戦いであったが、ヨーロッパ人はこの戦いを通してイスラムの文化にも接触することになった。イスラム社会は古代ギリシア・ローマの哲学や医学などの科学的な知識を積極的に導入し、さらにそれらを発展させていたが、ヨーロッパ人はこの古典知識に出会ったのである。そして、イスラムと同じように古代ギリシア・ローマの文化を再導入すれば、ヨーロッパ社会をさらに発展させることができると考えたのだ。特にコムーネの人々は社会体制が古代ギリシアやローマと近かったことから、積極的な導入をはかった。

北イタリアの大商人や有力なギルド、君主などは金や場所を提供するパトロンとなり、学者や芸術家を集めて古典文化の研究や議論を行わせた。コムーネの上流階級の人々にとって、このように文化を振興するのが一つのステータスとなっていた。

中でもフィレンツェのメディチ家は大口のパトロンとなることでルネサンスを大きく推し進める役割をしたことで有名だ。こうして、フィレンツェはルネサンスの中心地として栄えることとなった。

メディチ家は金融業(両替商)で巨万の富を成したが、その力を使ってフィレンツェでの実質的な支配者として君臨していた。彼らはドナテルロやボッティチェリ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家やマルシリオ・フィチーノなどの思想家を若い頃から援助したと言われている。なお、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の大改修を行った教皇レオ十世はメディチ家の出身であり、この大改修ではミケランジェロが主要な役割を果たした。


     ミケランジェロ

ルネサンス期の芸術家たちはそれまでの無機質な表現をやめて、陰影を用いた立体的な表現を行うことで写実性を高めた作品や、人物の感情表現を豊かにすることで高い人間性が感じられる作品を作るようになった。また、人体の理想的な比率や黄金比率などを研究し、理想的な美を追求した。

また学者たちは、古代ギリシア・ローマ・イスラムの膨大な文献をヨーロッパの言語に翻訳して行った。特に1453年の東ローマ帝国が滅亡した時に多くの優れた学者を北イタリアに招いたことから、古典文献の研究は大きく進んだ。そして、ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃〜1468年)が生み出した革新的な印刷技術によって、古典知識はヨーロッパ全土に普及することになった。

このようなルネサンスの活動は人々自身の生き方にも影響を与えるようになる。それまでの人々は領主や教会が定めたさまざまな規制によって自由が束縛されていたが、古代の人々の自由な生活を知り、人間を中心とした生き方を追求するようになったのだ。このような人間中心の在り方を「ヒューマニズム(人文主義)」と呼ぶ。

ヒューマニズムは北イタリアからヨーロッパ全体に浸透することによって、多くの人々の考え方に大きな影響を与えることになった。例えば、シェークスピア(イギリス)の『ハムレット』やセルバンテス(スペイン)の『ドン・キホーテ』、ラブレー(フランス)の『ガルガンチュワ物語』などはヒューマニズムの立場から人間の本質を鋭くとらえた作品である。

さらにルネサンスは、近代科学が生まれるきっかけにもなった。カトリックが説いてきた世界観に対して疑いが生まれ、自らの経験や実験で確かめられた事実だけを認めようとする考えが強まったのだ。そして、このような実証主義の立場に立って研究を行う人々が次々と現れるようになった。

天文学の分野では、ポーランドのニコラウス・コペルニクス(1473〜1543年)が地動説に基づいた天文学を構築した。続いてイタリアのガリレオ・ガリレイ(1564年〜1642年)は、望遠鏡で天体を観察することで地動説を確認した。また彼は、ピサの斜塔の落下実験で質量が変わっても物体の落下速度は同じであることを見つけた。

医学の分野では、ベルギーのアンドレアス・ヴェサリウス(1514〜1564年)は死体解剖を行うことによって人体の構造を研究し、人体解剖図の『ファブリカ』を出版した。彼は血管の始まりはそれまで信じられていた肝臓ではなく、心臓であることを発見した。イギリスのウイリアム・ハーベイ(1578~1657年)は様々な観察を行うことによって、体内の血液が心臓を中心に循環しているとの説を提出した。

以上のように、北イタリアで始まったルネサンスはヨーロッパが近代化する上で重要な役割を果たしたが、北イタリアのコムーネは16世紀になると急速に衰えて行くことになる。その要因となったのが大航海時代の到来によって香辛料貿易の中心がポルトガル・スペインに移ったことや、宗教改革によるローマ教皇の権威失墜、絶対王政国家となったフランスの圧力などだ。

こうして衰えた北イタリアに代わってフランスがパトロンとなり、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家を宮廷に招いたことから、文化の中心はフランスへと移って行く。「芸術の都パリ」と言われるように、西洋芸術と言えばフランスが筆頭に上がるのはこのためだ。