食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代ローマの農業の発展と衰退(4)

2020-07-20 17:30:02 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの農業の発展と衰退(4)
優れた農業技術を有していた古代ローマ人だったが、そのような技術も使われないと何の意味もない。紀元前200年頃から増えてきた大規模農地のラティフンディアでは目先の利益を優先したことから、輪作などで土地を休ませることをしなかった。その結果、土壌から次第に栄養が失われていった。

やせた土壌は乾燥しやすく崩れやすい。このため、少しの風や雨で土壌は流失してしまう。特に、鉄製の農具を使って深く耕した土地は土壌が流出しやすい。また、鉄製の農具で森を切り開いて作った農地は傾斜地にある場合が多いので、風や雨によって土壌が流れ出しやすかった。土壌がいったん流失してしまうと岩盤がむき出しになり、もはや農耕地としての回復は見込めなくなってしまうのだ。

一方、牧草地でも土壌の流出が進んだ。イタリア南部のラティフンディアはヒツジの巨大な放牧場になっていた。ここでも儲けを多くしたいために、土地のキャパシティを越えて大量のヒツジを飼育する「過放牧」の状態になっていた。ヒツジからはミルクと羊毛が得られるためとても有用な家畜だが、過放牧を行うと土地の荒廃を引き起こしやすい危険な動物でもある。

ヒツジによって土地が荒廃する仕組みは次の通りだ。
家畜の密度が高すぎると放牧地の草が食べつくされてしまうが、ヤギとヒツジは貪欲で、地上部分に食べる物がないと根まで食べてしまうのだ。根まで食べつくされてしまうと、牧草の復活は難しいし、根という支えが無いために土壌が流出しやすくなる。そして、土壌が流出するともはや何も生えない土地になってしまうのである。イタリア南部はローマ時代の過放牧によって荒廃し、今日でも元の状態まで回復していないと言われている。

このように、節度のない農業と牧畜が行われた理由を博物学者のプリニウス(西暦23~79年)は、広い農場を奴隷監督に任せているからだと記している。ラティフンディアでの作業員はもちろん奴隷が務めていたが、その監督も奴隷が行っていたのだ。彼らの労働意欲は高くなく、ラティフンディアの生産効率は中世期の農奴制よりもずっと低かったと言われている。つまり、ラティフンディアの拡大によってローマ帝国の農産物の生産性が下がるとともに、農地や牧草地も荒廃したのである。

さて、農地や牧草地から流出した土壌は川に流れ込むわけだが、土壌が川底に堆積すると川は氾濫しやすくなる。やがて川の氾濫が常態化すると、耕作地だった一帯が湿原化してしまった。このようにして生まれたのが、ローマの南東にある悪名高いポンティノ湿原だ。この海岸近くの湿原は幅が8~16kmで長さは約 50kmに及び、紀元前200年頃からマラリアのはびこる地として有名だった。ここが干拓地として再整備されるのは20世紀のムッソリーニの時代まで待たなければならない。

また、土壌が川を下って海に流れ込むと、河口で堆積し河口近くの港が使えなくなってしまうという事態をまねくこともあった。ローマを流れるテヴェレ川の河口にはオスティアと呼ばれる港町があったが、この港が堆積物で使用できなくなってきたのだ。

属州などからの物資はいったんオスティアに運ばれていた。そして小型の船に積み換えられてからテヴェレ川をさかのぼり、約20キロ内陸にあるローマに到着するのだ。つまり、オスティアはローマの玄関口という重要な役割を果たしていたのだが、この港の使用が難しくなってきたためローマへの物資輸送が滞り始めたのだ。ローマ人は別の場所に新しい港を作って危機を回避したが、オスティアはやがて土砂に埋まって放棄されてしまった。

オスティアの遺跡(ローマから30分くらいで行くことができる)

農地の荒廃に加えて食料生産に大きな打撃を加えたのが気候の寒冷化だ。西暦200年から400年にかけて北半球において広く寒冷化が生じたため、作物の生産量が激減したのだ。食べるものが無いと人は生きていけない。食料難の結果、2世紀に100万人を越えていた都市ローマの人口は400年には40万人まで減少した。ヨーロッパ全体でも、この期間に総人口は半減している。

ローマ帝国の版図について見てみると、最大となるのが「テルマエ・ロマエ」に登場するハドリアヌス帝などの五賢帝の時代(西暦96~180年)で、それ以降は新しい領土の獲得はできなくなる。すると、新しい征服地から奴隷が手に入らなくなり、また食料不足のため奴隷が産む子も減少したため、次第に奴隷の数が少なくなっていった。その結果、奴隷に依存していたラティフンディアはそのままでは立ち行かなくなってきたのだ。

そこで農場主は、農地を放棄した市民を小作人として大量に雇って、大規模農場を維持することとした。これをコロナトゥス制と呼ぶ。西暦332年には小作人の自由な移動を禁止する法律が出され、小作人は土地に一生涯にわたって縛り付けられることになる。このような厳しい法律が出される背景には、食料生産の急激な落ち込みがあったと考えられる。

一方、世界的な食料不足は「民族の大移動」を引き起こすことによって、古代ローマの衰退は急速に進んでいくことになる。
(次回はゲルマン人が登場します)

古代ローマの農業の発展と衰退(3)

2020-07-18 13:48:17 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの農業の発展と衰退(3)
ギリシアやカルタゴなどに勝利することで進んだ農耕技術を手に入れた古代ローマ人はさらに独自の研究を重ねることで、輪作などの卓越した技術を発展させていった。

彼らは、土壌にはいくつか種類があり、それぞれの土地や土壌に適した植物があること発見した。例えば、穀物は十分な降雨量または灌漑設備が行き届いた低地が良かった。また、ブドウは砂地を好むし、オリーブは岩がちの地面で良く育った。ナッツの木は高い斜面に好んで生えた。

また、古代ローマ人は、どの家畜の糞が肥料として最適であるかも研究した。その結果、一番効果が高かったのは鶏糞で、ヒツジやヤギの糞も良いことが分かった。一方、牛糞は良くなかった。また、馬の糞は穀物の収穫には適していなかった。

現代でも鶏糞は最も良い肥料になるとされており、古代ローマ人の発見は現代の知識から見てもとても正しいと言える。鶏糞が良い理由は、鳥は糞と一緒に尿をするのだが、この尿の中に植物の三大栄養素の一つの窒素が大量に含まれているからだ。また、残りの二つの栄養素であるリンとカリも多く含まれている。一方、牛糞は窒素とリンの含有量が低い。これが、牛糞が肥料として良くない理由だ(と言っても、牛糞は大量に手に入るので、現代では多くの有機肥料に使用されている)。

なお、海鳥の糞や死体、エサの魚などが積み重なってできた化石はグアノと呼ばれ、最高級の肥料として19世紀には各国の争奪戦が繰り広げられた。この熾烈な戦いの末に生まれたのがハーバー・ボッシュ法(窒素固定法)で、この技術が世界中に浸透することによって食物の大量生産が可能になり、世界人口が爆発的に増加した(この物語を本ブログで詳しくお話しするのはかなり先のことになります)。

以前に「古代ローマの食材(6)ローマは果物の帝国」でお話ししたように、ローマ人は接ぎ木の技術を格段に進歩させ、美味しい果物を大量に作り出す方法も開発している。


さらに古代ローマ人は、農作業を効率よく進めるための新しい農具をいくつも開発した。そのうちの一つが下の写真のような穀物の収穫機だ。西暦1世紀以降に使用され出したこの機械には車輪が付いた本体の前面に鉄製の歯があり、人がロバ(もしくはウシ)を使って畑に押し込むことで、穀物の穂を刈り取って行くのだ。刈り取られた穂は後ろの木枠の中にたまっていく。

古代ローマの刈り取り機

また、古代ローマ人はトリビュラム(tribulum)という脱穀用の農具を使っていた。これは下図のように小さな石が埋め込まれ板だ。石のある面を下にしてムギの穂の上に乗せ、さらにその上に人が乗った状態で動物に引っぱらせると、地面とトリビュラムに挟まれたムギが簡単に脱穀されるのだ。

古代ローマの脱穀機(トリビュラム)

脱穀されたムギはもみ殻が取り除かれ乾燥させたのちに石臼で粉にされる。この作業をムギが少量の場合は人手で行ったが、多い場合は大きい石臼を家畜に回してもらったり、さらに大量の場合は水力を利用したりした。ローマには水力を利用した大規模な製粉工場が建てられていた。

以上のような技術革新によって食料生産量が増えるにしたがって帝都ローマの人口は増加していった。西暦の初めころのローマの人口は75万人ほどで、2世紀になるとピークを迎え、100万人以上もの人が住んでいたと推定されている(この頃のローマ帝国の総人口は6500万人と見積もられている。これは当時の世界人口の約2割を占める)。100万人もの人口を養うためには大量の食料が必要で、市民権のある男性のみを養うだけでも、週に5000トンのコムギが必要だったと見積もられている。

ローマ周辺の農村地域は紀元前3世紀末まではローマが必要とする食料を供給できていた。しかし、それ以降はローマを養うことが次第に不可能になり、他の地域から食料を運んでくるしかなかった。食料の主要な供給元となったのがエジプトと北アフリカで、1年間に約40万トンの穀物がこれらの地域から100万のローマ市民のために運ばれた。これはローマの消費量の約3分の1にあたる。この状況が安定して維持できれば帝国は安泰であったと考えられるが、実際にはそうならなかった。
(まだ続きますが、次回で終わりそうです)


古代ローマの農業の発展と衰退(2)

2020-07-16 19:50:53 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの農業の発展と衰退(2)
ローマの勝利によって中産階級の市民にもたらされた悲劇が生活の困窮だ。比較的小さな農地で家族経営の農業を営んでいた市民は、戦争に参加すると農地の面倒を見ることができなくなる。その間は妻や子供、あるいは老いた親に任せるしかないが、どうしても農地を良い状態に保つことが難しくなる。こうして、長年の従軍によって多くの市民の農地が荒廃してしまい、十分な作物を作ることが難しくなったのだ。以前は余った作物を売ることでお金を得て裕福な生活をしていた彼らだったが、今度は生活のために借金をするしかなくなってきた。そして最終的には、自分の農地を貴族などの金持ちに安い金額で売らざるをえなくなったのだ。

一方で、貴族など金と権力を有する者たちには農地が集まり始めていた。他国との戦争に勝ってその土地を占領すると、それはローマのものになったのだが、彼らは公有地の一部を勝手に自分のものとしてしまった。このような土地の不法占拠が共和政初期から始まったと言われている。

こうして手に入れた巨大な農地で、権力者たちは戦争で捕虜にした他国の兵士たちを奴隷として働かせた。このような農業を「ラティフンディア(大土地所有制)」と呼ぶ(このような農地もラティフンディアと呼ぶ)。自給自足の家族経営の農地とは異なり、ラティフンディアは金儲けの事業として運営されていた。カルタゴとの第2次ポエニ戦争(紀元前219~前201年)以降は、没落した中小の農民から農地を買い集めることで、ローマ周辺でもラティフンディアが増えて行った。

このようなラティフンディアの増加は、家族経営の農民たちがさらに困窮する原因となった。大農園で生産された作物が国内に大量に流通するようになり、価格が下落したことで農夫たちの収入も減ってしまったのだ。つまり、農地の荒廃と作物の価格低下のダブルパンチをくらうことで、頑張って戦った農民の生活が困窮してしまったということになる。こうして、第2次ポエニ戦争(紀元前219~前201年)以降に、家族経営の農地は売り払われることで急激に減少していった。

権力者に土地を売った農民の一部は地主から農地を借りて賃料を払いながら小作農としてほそぼそと農業を続けた。また、無産市民(プロレタリア)となり食べ物を求めて都市に引っ越す者もいた。なお、このプロレタリアと言う言葉はラテン語で子供の「プローレス(proles)」から来ており、財産は子供しかないことを意味している。彼らは無産階級と言う下層の市民であったが、投票権を有していることから指導者からの生活の保護を受けることができた。いわゆる「パンとサーカス」の制度だ。

共和政のローマでは市民は平等と言う考えが主流だった。しかし、中産階級の農夫が没落して貧富の差が拡大してくると、次第に平等感も薄れて行った。これが共和政の崩壊につながることを懸念して行動を起こしたのが、平民の代表で統治権のあった護民官のグラックス兄弟だ。彼らは個人の土地の所有に制限を設けるとともに無産市民に農地を与えることで農夫たちの困窮を改善しようとした。しかし、彼らのやり方は富裕層からの猛烈な反発を受け、兄は殺されてしまう。また、兄を引き継いだ弟は自殺に追い込まれてしまった。

ところで、このような中産階級の没落は、ローマの軍事力にも大きな影響を与えることになった。ローマ市民には通常は兵役の義務があったが、無産市民にはこれが免除されていた。このため、無産市民の増加によってローマ軍は弱体化してしまったのだ。それを察知したケルト人がガリアで蜂起し、8万人ものローマ兵が殺されるなどの事件が起きる。



この窮地を救ったとされているのが執政官(共和政ローマの最高位)になったマリウス(紀元前157~前86年)だ。彼は無産市民を兵士として好待遇で雇い入れ、ローマ軍の立て直しをはかった。ハングリーでやる気のあった無産市民は期待に応え、ローマ軍は再び強さを取り戻したという。しかし、この制度によって職業軍人と言う新しい階級が生まれ、これがのちのちローマの衰退する原因の一つとなって行く。

(まだ続きます)

古代ローマの農業の発展と衰退(1)

2020-07-14 20:15:47 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの農業の発展と衰退(1)
古代ローマは政治形態から次の三つの期間に分けることができる。
  • 王政ローマ(紀元前753~前509年):7人の王の時代、詳しい記録は残されていない
  • 共和政ローマ(紀元前509~前27年): 君主を持たない時代
  • 帝政ローマ(紀元前27~476年): 皇帝の時代
この中で、古代ローマが最も発展したのが二つ目の共和政ローマの期間だ。この時には以下のように新しい領土の獲得が次々と成し遂げられた。

イタリア半島統一(前272年)、シチリア西部を獲得(前241年)、西地中海征服(前201年)、東地中海を支配(前170年頃)、マケドニアを属州化(前148年)、カルタゴ征服しアフリカを属州化(前146年)、シリア征服(前64年)、ガリア征服(前50年)



さらに、帝政期の初期に下記の地域を属州化することで、古代ローマの支配地域はほぼ最大に達する。

エジプトを属州化(前30年)、ダキアを属州化(106年)、メソポタミアを属州化(117年)

古代ローマは農業国だった。そして農業のあり方がこの古代国家の盛衰に大きく関わっていたと同時に、上で見たような古代ローマの版図の拡大が古代ローマの農業のあり方を大きく変化させた。そしてこの農業のあり方の変化が、古代ローマが衰退していく大きな要因になったと考えられるのだ。

そこで今回と次回で、古代ローマにおける農業の変化について見て行こうと思う。

共和政初期のローマの農場は小規模な家族経営だった。つまり、ローマの中産階級の一般市民は小さな自分の農場を持ち、自給自足の生活を送っていた。そして戦争があると自前で揃えた武器を携えて戦闘に参加した。農耕も戦闘も自分と家族の生活を守るための重要な活動であり、彼らはこのような生活に誇りを持っていたと思われる。

古代ローマ人は作物を育む土壌を「テラ・マーテル(Terra Mater、母なる大地)」と呼び、ローマ神話の大地の女神と同一視していた。テラはラテン語で「大地」を意味する語で、現代日本でも大地や地球を意味する言葉として使われることがある。

共和制に移行した紀元前500年頃から徐々に鉄が農具に使用されるようになったことが、農作物の生産性を大きく向上させる要因になった。金属器としてそれまでは青銅が使われていたが、青銅が採れる地域は限られており、とても貴重な金属であったため農具には使用されなかった。一方、鉄はいたるところで手に入り安価だったし、堅く、耐久性があり、加工も簡単なため、農具に広く使用されるようになった(鉄の利用は人類史上の画期的な出来事で、なかなか面白いテーマなので、古代中国のところで詳しくお話ししたいと思います)。

鉄の農具は堅く先が鋭いため、土壌を深く耕すことができる。土が深いところまで柔らかくなると植物は根を伸ばしやすくなり、たくさんの水と栄養を吸収できるようになって育ちが良くなるのだ。この結果、作物の収穫量が増えることになった。

また、鉄製の斧や鋤などを使うことで木を切り倒したり木の根を掘り返したりも楽にできるようになったので、森を農地に変えることが盛んに行われた。紀元前500年頃のイタリア半島の大部分は森におおわれていたが、鉄の農具の普及によって紀元前300年頃までに多くの森林が農地に変えられていった。そして、新しく作られた農地には灌漑設備によって水が供給された。たくさんの水道を作ったようにローマ人は水利工事にもたけていたので、農地に水を引いてくることもお手の物だった。こうして優良な農地が増えたことによっても生産量が増大したのだ。

以上のように農作物の生産力が向上したことで国力が増強され、市民も裕福になった。裕福になると良い武器を買うことができるので、戦闘力も強化されたと考えられる。こうして紀元前3世紀以降に、ローマ軍はイタリア半島を統一し、ギリシアやカルタゴとの戦い勝利していくわけだ。

ところで、この頃のギリシア人は大きな土地を所有し輪作という新しい農業を始めていた。輪作とは、同じ耕作地に穀物や牧草などのいくつかの種類の作物を一定の期間ごとに順番に栽培する農法のことである。同じ作物を作り続けると、特定の栄養素が作物に奪われることで枯渇し、いわゆる「連作障害」が起こるが、輪作ではこれを防ぐことができるのだ。

また、カルタゴも農耕の先進国だった。ローマがカルタゴを徹底的にたたいた理由の一つが、カルタゴが自分たちよりも優れた農業技術を持っていることに脅威を感じたからだと言われている。そのため、カルタゴを征服した後に、作物が二度と育てられないようにカルタゴの農地に塩をまいたのだ。なお、ローマ軍がカルタゴを占領した時には、カルタゴの知識が詰まった図書館の蔵書はアフリカの諸王に提供したが、「マゴの農書」と呼ばれるカルタゴの農業についての書物だけは自国に持ち帰り、ラテン語とギリシア語に翻訳したという。

カルタゴとローマの戦いはこちら⇒「カルタゴとローマの戦い」

ローマがギリシアとカルタゴを征服することによって、両国の新しい農耕技術がローマに導入されることでさらに生産性が向上した。そして、共和制の後期から帝国期の初期にかけてローマの農業の生産効率は最高に達したと推定されている。
ところが、戦争の勝利が市民たちに悲劇をもたらすことになる。
(つづく)

古代ローマの建国物語から

2020-07-12 13:52:21 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食料生産とローマ帝国の衰退
古代ローマの建国物語から
建国物語はどんな国のものでもとても面白い。ほとんど神話に近いものもあるが、その国を作った人々の想いや願いが込められているように思うからだ。
ここで、古代ローマの始まりの物語について簡単に見ておこう。

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伝説では、古代ローマの建国の物語はトロイの木馬の話で有名なトロイア戦争までさかのぼる。トロイア戦争ではスパルタとミケーネの連合軍がトロイアを包囲して攻防戦が繰り広げられた。10年かかってもトロイアを攻略できない連合軍は和平を結ぼうと偽って、兵士を潜ませた木馬を贈り物としてトロイアの城門前に放置して軍を引き上げる。喜んだトロイア軍は城内に木馬を引き込むが、夜中に木馬から出てきた兵士が城門を開いた結果、連合軍が城内になだれ込み、トロイアは敗北してしまう。
焼け落ちたトロイアからは、トロイアの王族で半神の英雄アイネイアスら数名だけが脱出できた。彼は地中海を放浪した末に、イタリア半島に上陸する。そしてそこでラテン人の王の娘と結婚し、新たなトロイアの都を建設した。その後、アイネイアスの子シルウィウスが別の都アルバ・ロンガを建設し、その子孫が都を治めるようになった。

しかし、シルウィウスから数えて12代目の王の死後、その息子同士の王位争いが勃発する。争いの結果、弟アムリウスが勝利し王位を奪う。アムリウスは兄ヌミトルの息子を皆殺しにし、娘のレアを結婚しないように巫女にした。しかしレアは、戦いと農耕の神マルスとの間に双子の兄弟を産んでしまう。怒ったアムリウスは家臣に双子を殺すように命じるが、その家臣は憐憫の情から双子をカゴに入れてテヴェレ川に流した。川の女神の導きでカゴは下流の岸に流れ着く。そして、その近くのパラティーノの丘で兄弟はメスのオオカミに育てられた(写真)。

オオカミに育てられるロムルスとレムス

その後双子は羊飼いに発見されて育てられ、ロムルスとレムスと名づけられる。やがて立派に成長した二人は自らの出生の秘密を知り、大叔父のアムリウスを討ち取って祖父のヌミトルをアルバ・ロンガの王に復位させた。そして新しい都を建てるためにつき従う人々とともに自分たちが拾われたパラティーノの丘に戻った。

しかし、どの場所を都にするかで兄弟の間にいさかいが起こってしまう。ロムルスはパラティーノの丘が良いと言ったが、一方のレムスは近くのアヴェンティーノの丘の方が良いと言い張った。彼らはどちらが都にふさわしいかを鳥占いで決めることにした。すると、レムスの土地には先に鳥が飛んできたが、合計は6羽にしかならなかった。それに対してロムルスの選んだ土地には12羽の鳥が飛んできた。こうしてロムルスが勝利したことになったのだが、レムスには不満が残ることになった。

ロムルスは二頭の牛に引かせた犂で溝を掘って都の領域を定めて行った。ところがレムスはそれを飛び越えてしまう。これは彼の都市が侵略されたことを暗示していたため、怒ったロムルスはレムスを殺し、またロムルスの部下もレムスの部下を打ち負かした。争いの後、ロムルスはレムスを埋葬し、都をロムルスにちなんでローマと名付け最初の王になった。これは紀元前753年4月21日のこととされる。

4月21日は今日でもローマの誕生日として祝われており、ローマ時代の衣装に扮した多くの人々で町が彩られる。
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ローマ建国の物語でロムルスは戦いと農耕の神のマルスの子とされていることから、古代ローマ人は戦いと農耕を重要視していたことが分かる。実際に、イタリア半島の土壌は肥沃で有名だった。1ヘクタール(10000㎡)の土地を耕せば、一家族が一年間生活するだけの食料が得られたと言われている。このように古代ローマの初期には、農耕が人々の生活の基盤となっており、そのため農地(土地)はとても大切なものだった。ロムルスがレムスを殺した理由も自分の土地を侵されたからであり、土地に対する執着心は並大抵のものではなかったと考えられる。そして、さらに農地を広げていく手段として他国への侵略戦争が進められたのだろう。つまり、古代ローマ人は戦う農耕民族であり、農地を増やすために地中海及びヨーロッパを征服していったと考えられる。