古代ローマ人の食事(7)酢の話
ローマ人が日々の生活でよく飲んでいた飲料に「ポスカ(posca)」と呼ばれるものがある。これは酢を水で薄めたもので、ハーブで風味付けをすることもあったようだ。町にはポスカを売る屋台が出ていて、のどが乾いたら買って飲んだらしい。現代の清涼飲料水に相当するものと考えてよいだろう。
プリニウスの「博物誌」によると、エジプトの女王クレオパトラは、ローマの三頭政治の一人アントニウスを歓待する宴席で豪華さを演出するために、国宝級の真珠を酢に溶かして飲んで見せたということである。
それに先立つ古代ギリシアでも、水に酢と蜂蜜を混ぜて作った「オキシクラット(oxycrat)」と呼ばれる飲み物があり、これもよく飲まれていた。また、酢は健康に良いという考えが「医学の父」と呼ばれる古代ギリシア人のヒポクラテス(紀元前460年頃~前370年頃)によって広められ、呼吸器疾患や傷の治療などに使われたそうだ。
人類は古くから酢を作っていた。紀元前5000年頃のメソポタミアでは、ナツメヤシや干しブドウから酢を作っていたという記録が残っている。エジプトのファラオの時代の花瓶には酢を作っている様子が描かれており、また、旧約聖書にもワインで作った酢の記述がある。
酢は通常は5%ほどの酢酸の溶液であるが、ほとんどの微生物は0.5%以上の酢酸存在下では生育することはできない。このため酢は食べ物を保存するのに使われたり、飲み水を殺菌するのに使われたりした。古代の旅行者は酢を携帯していて、行く先々で水に酢をたらして殺菌してから飲んでいたらしい。また、傷の消毒や体を清めるのにも使用されていた。
酢は調味料としても重要だった。例えば、料理書の「アピキウス」の多くのレシピにも酢が使われている。古代ローマのケーナでは、酢を入れたボウルがテーブルの上に置かれていて、パンをそこに浸して食べたそうだ。また、古代ローマ人はフライした魚を酢に漬けて作る「マリネ」を生み出したと言われている。
古代には酢のほかには塩くらいしか調味料は無く、多くの料理で酢と塩が組み合わされて使われていた。例えば、オリーブオイルに酢と塩を混ぜ合わせて作ったドレッシングは、古代より現代にいたるまでいろいろな野菜の風味付けに使用されている。ローマ軍では戦いの前に、ニンニク、タマネギ、ヤギのチーズとコリアンダーで作ったサラダに、オリーブオイル・酢・塩で作ったドレッシングをかけて食べるのが習わしだったそうである。
ところで、塩味と酸味が組み合わさると、お互いの刺激的な味を弱めて全体としてまろやかな味なることが知られている。これは「味の抑制効果(相殺効果)」と呼ばれ、漬物やすし酢などが美味しいのはこのせいだ。先のドレッシングが古代から使い続けられているのも、この塩味と酸味の抑制効果によるところが大きいと考えられる。
さて、酢は一般的に酢酸菌が発酵によってアルコールを酢酸に変化させることによって作られる。例えばワイン酢(ワインビネガー)の場合は、ぶどう果汁を酵母でアルコール発酵させた後に、酢酸菌でさらに発酵させることによってできる。酢酸菌は身の回りに広く存在している常在菌で、ブドウなどの果実には酵母や乳酸菌と一緒に付着している。これがアルコール発酵後に働き出すのだ。
酵母が酸素を使わないで発酵を行うのに対して、酢酸菌は酸素を使ってアルコールを酢酸に変える。このため、酢酸菌は酸素に触れやすいように、アルコールの表面に膜を作るように生育するという特徴を持っている。酢酸菌はワインなどの比較的アルコール濃度の低い酒でしか生存できないので、アルコール濃度の高い日本酒では酢酸発酵をすることはできない。そこで、米酢を作る時には日本酒を薄めてアルコール濃度を低くしている。
なお、日本酒は悪くなると酢になると言われるのは、乳酸菌によって乳酸ができて酸っぱくなるからだ。これを「火落ち」と呼ぶ。酢になっているわけではないのだ。