食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代ローマの農業の発展と衰退(2)

2020-07-16 19:50:53 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの農業の発展と衰退(2)
ローマの勝利によって中産階級の市民にもたらされた悲劇が生活の困窮だ。比較的小さな農地で家族経営の農業を営んでいた市民は、戦争に参加すると農地の面倒を見ることができなくなる。その間は妻や子供、あるいは老いた親に任せるしかないが、どうしても農地を良い状態に保つことが難しくなる。こうして、長年の従軍によって多くの市民の農地が荒廃してしまい、十分な作物を作ることが難しくなったのだ。以前は余った作物を売ることでお金を得て裕福な生活をしていた彼らだったが、今度は生活のために借金をするしかなくなってきた。そして最終的には、自分の農地を貴族などの金持ちに安い金額で売らざるをえなくなったのだ。

一方で、貴族など金と権力を有する者たちには農地が集まり始めていた。他国との戦争に勝ってその土地を占領すると、それはローマのものになったのだが、彼らは公有地の一部を勝手に自分のものとしてしまった。このような土地の不法占拠が共和政初期から始まったと言われている。

こうして手に入れた巨大な農地で、権力者たちは戦争で捕虜にした他国の兵士たちを奴隷として働かせた。このような農業を「ラティフンディア(大土地所有制)」と呼ぶ(このような農地もラティフンディアと呼ぶ)。自給自足の家族経営の農地とは異なり、ラティフンディアは金儲けの事業として運営されていた。カルタゴとの第2次ポエニ戦争(紀元前219~前201年)以降は、没落した中小の農民から農地を買い集めることで、ローマ周辺でもラティフンディアが増えて行った。

このようなラティフンディアの増加は、家族経営の農民たちがさらに困窮する原因となった。大農園で生産された作物が国内に大量に流通するようになり、価格が下落したことで農夫たちの収入も減ってしまったのだ。つまり、農地の荒廃と作物の価格低下のダブルパンチをくらうことで、頑張って戦った農民の生活が困窮してしまったということになる。こうして、第2次ポエニ戦争(紀元前219~前201年)以降に、家族経営の農地は売り払われることで急激に減少していった。

権力者に土地を売った農民の一部は地主から農地を借りて賃料を払いながら小作農としてほそぼそと農業を続けた。また、無産市民(プロレタリア)となり食べ物を求めて都市に引っ越す者もいた。なお、このプロレタリアと言う言葉はラテン語で子供の「プローレス(proles)」から来ており、財産は子供しかないことを意味している。彼らは無産階級と言う下層の市民であったが、投票権を有していることから指導者からの生活の保護を受けることができた。いわゆる「パンとサーカス」の制度だ。

共和政のローマでは市民は平等と言う考えが主流だった。しかし、中産階級の農夫が没落して貧富の差が拡大してくると、次第に平等感も薄れて行った。これが共和政の崩壊につながることを懸念して行動を起こしたのが、平民の代表で統治権のあった護民官のグラックス兄弟だ。彼らは個人の土地の所有に制限を設けるとともに無産市民に農地を与えることで農夫たちの困窮を改善しようとした。しかし、彼らのやり方は富裕層からの猛烈な反発を受け、兄は殺されてしまう。また、兄を引き継いだ弟は自殺に追い込まれてしまった。

ところで、このような中産階級の没落は、ローマの軍事力にも大きな影響を与えることになった。ローマ市民には通常は兵役の義務があったが、無産市民にはこれが免除されていた。このため、無産市民の増加によってローマ軍は弱体化してしまったのだ。それを察知したケルト人がガリアで蜂起し、8万人ものローマ兵が殺されるなどの事件が起きる。



この窮地を救ったとされているのが執政官(共和政ローマの最高位)になったマリウス(紀元前157~前86年)だ。彼は無産市民を兵士として好待遇で雇い入れ、ローマ軍の立て直しをはかった。ハングリーでやる気のあった無産市民は期待に応え、ローマ軍は再び強さを取り戻したという。しかし、この制度によって職業軍人と言う新しい階級が生まれ、これがのちのちローマの衰退する原因の一つとなって行く。

(まだ続きます)