食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)

2021-10-14 18:16:32 | 第四章 近世の食の革命
砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)
今回から中南米のいわゆるラテンアメリカのシリーズが始まります。

近世のラテンアメリカはヨーロッパの国々の植民地になっていました。そもそも「ラテン」とはスペインとポルトガルが位置している「イベリア半島」のことで、両国が中南米の支配者であったことからラテンアメリカと名付けられました。

ところで、黒人奴隷と聞くとアメリカ合衆国を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は北米よりもラテンアメリカに連れて来られた黒人の方がずっと多かったのです。

ある研究によると、北米には40万人の黒人が運ばれてきましたが、カリブの島々には460万人、ブラジルやメキシコ・ペルーなどには440万人もの黒人が連れられて来られたと推定されています。

また、北米では黒人奴隷はお互いに結婚して子供を残すことができましたが、ラテンアメリカの黒人奴隷の多くは過酷な労働のために5年くらいで死亡したと言われています。

このように、負の側面が際立つラテンアメリカの奴隷制ですが、西ヨーロッパの国々にとっては、近代以降に世界の中心的な存在に成長して行くための大きな礎になりました。

今回は、食の世界でもとても重要な砂糖のプランテーションの歴史について見て行きます。



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スペイン王室の依頼を受けたクリストファー・コロンブスは1492年10月にカリブ海に到達した。これがヨーロッパによるラテンアメリカの植民地の始まりとされている。

1494年にローマ教皇の仲裁によってスペインポルトガルの間に結ばれたトルデシリャス条約によって、アメリカ大陸はスペインの領土となった。ただし、1500年にポルトガル人のカブラルがブラジルを発見したため、現在のブラジルの東側はポルトガルの領土となった。

ラテンアメリカに最初にサトウキビを持ちこんだのはコロンブスだ。1493年の第2回目の航海の際に、コムギやオオムギ、ブドウなどとともにサトウキビの苗木をカリブ海のエスパニョーラ島に運んできたのだ。こうして、この島でサトウキビの栽培と砂糖の生産が始まった。

1516年にはエスパニョーラ島に最初の製糖工場が建設され、本格的な砂糖プランテーションが始まった。「プランテーション」とは、白人が植民地で原住民や黒人の奴隷を用いて単一作物の大規模栽培を行う大農園のことだ。プランテーションでは少数の白人が大農園主として多数の奴隷の上に君臨することで、莫大な富を蓄積した。エスパニョーラ島で始まった砂糖プランテーションはその後、キューバなどのカリブ海の島々に広がって行った。

一方のポルトガルは、ブラジルの海岸地域や沖合の島々に大農園を作り、1530年頃からサトウキビの栽培と砂糖の製造を始めた。1540年までにブラジルでは1000以上の砂糖プランテーションが開発されていたと言われている。

ポルトガル人は、初めは主に原住民を奴隷として用いてサトウキビの栽培を行っていたが、過酷な農作業のため原住民が死亡したり逃亡したりしたため、1570年頃から植民地としていた西アフリカから黒人奴隷を導入するようになった。ポルトガルは既にマデイラ諸島やカナリア諸島、そして西アフリカ沖の島々で黒人奴隷を用いたサトウキビの栽培を行っており、このシステムを持ちこんだのだ。

スペインが支配していたカリブ海の島々では、主にヨーロッパから持ち込まれた感染症によって奴隷として働いていた原住民が著しく減少したため、ポルトガルにならって黒人奴隷を使用するようになった。スペインは現在のメキシコやペルーなども植民地化し、砂糖のプランテーションを建設して行った。しかし、そこでも感染症によって原住民が激減したため、黒人奴隷を導入するようになった。

ここで、砂糖プランテーションにおけるサトウキビの栽培と砂糖の生産の各過程について見てみよう。

まず、農地を耕し、サトウキビの枝を植える。そうすると、枝から根が出て来て養分を吸い上げ、新しい芽ができる。この芽を大きく育てるのだ。そのためには雑草を丁寧に取り除く必要がある。雑草取りは1日に3度行われたという。

サトウキビが熟してくると、釜の燃料のための木々を伐採して薪を作る。そしてサトウキビの刈り取りを始めるのだ。刈り取られたサトウキビは搾りやすいように12本ずつに束ねられた。

収穫したサトウキビはすぐに圧搾機にかける必要があった。放っておいて水分が蒸発すると汁が出なくなるからだ。このため、圧搾機を備えた砂糖工場がサトウキビ畑のすぐ近くに建てられた。そして、圧搾機の処理量に合わせてサトウキビが刈り取られ、数か月間にわたって毎日のように刈り取りと圧搾、そして砂糖の精製が行われたという。

圧搾機を通して出て来た搾り液は大きな窯に流し込まれ、薪がくべられて煮詰められる。浮かんでくるアクは不純物であるため絶えず取り除かなくてはいけない。こうして十分に煮詰まった液を冷やすと、砂糖が結晶化してくる。この時の砂糖はまだ茶色で、これを粗糖と呼ぶ。白い砂糖を得るためには、粗糖を再び水に溶かして石灰などによって不純物を除去したのち、結晶化を行う。

このようなサトウキビの栽培と砂糖の生産がラテンアメリカの各地の植民地で行われていたのである。

ラテンアメリカにおけるスペインとポルトガルの植民地のほとんどは、16世紀初頭から19世紀のはじめまで続いた。しかし、その間は安泰だったかと言うと、そうではない。海洋新興国であるイギリス・フランス・オランダがラテンアメリカに進出してきたのだ。

彼らの最大のねらいは、スペインの植民地のペルーやメキシコで産出されるだった。1545年から1546年にかけてペルーとメキシコで大銀山の鉱脈が発見され、銀の採掘がラテンアメリカ最大の産業になっていたのだが、この銀を海賊行為によって強奪したのである。銀の次にねらわれたのが砂糖で、輸送船がポルトガル船の場合は砂糖がメインターゲットになった。

最初は帆船を派遣して海賊行為を行っていたイギリス・フランス・オランダは、やがてカリブ海の島々を強奪して海賊行為の本拠とするとともに、植民地として開発を行った。イギリスはジャマイカやバルバドス、トリニダード=トバゴなどを、フランスはサンドマング(エスパニョーラ島西部で後のハイチ)やマルティニクなどを、オランダはキュラソーなどをそれぞれ植民地化した。そして、ジャマイカやバルバドス、サンドマングなどでは、砂糖が盛んに生産されるようになるのである。

なお、オランダはポルトガル植民地のブラジルに侵攻し、1635年にはブラジル北東部を占領した。そして、この地で大規模な砂糖の生産を行うようになった。しかし、1654年にポルトガルに奪還されたため、イギリスやフランスのようにカリブ海の島々で砂糖の生産を行うようになった。

イギリス・フランス・オランダのカリブ海の植民地では粗糖までが作られたのち、それが本国に送られて砂糖の精製作業を行うというシステムが構築されていた。精製作業には高度な技術が必要だったからと言われている。

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