食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ビールにホップ-中世盛期のヨーロッパと食(8)

2020-12-05 20:42:17 | 第三章 中世の食の革命
ビールにホップ-中世盛期のヨーロッパと食(8)
ビールに使われるホップは中国語では「酒花」と言いますが、私はとても良い名前だと思っています。

ホップはビール特有のほろ苦さと芳香の源であることはよく知られていますが、役割はそれだけではなく、「ビールに魂を吹き込んだ」と言われるほど重要なものです。

今回はこのホップについて見て行きたいと思います。


ホップ(M. RichterによるPixabayからの画像)
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まず、ホップの役割をあげてみよう。それは次のようなものだ。

・ビール特有のほろ苦さと芳香を付与する
・輝くような透明感を与える
・美しい泡を作る
・雑菌の繁殖を抑えて保存性を良くする

これを見ると「ビールに魂を吹き込んだ」と言われる理由がよく分かると思う。

ビール造りにホップが使われたのは新バビロニア王国(紀元前625~前539年)が最初と言われており、野生のホップらしきものが使用されたとの記録が残されている。8世紀頃になると、ホップやサルビア、アニス、ショウガ、パセリ、チョウジ、ハッカ、ニガヨモギなどの「グルート」と呼ばれる香草を使用したビールが造られるようになった。ホップが栽培されるようになったのもこの頃で、最初はドイツのバイエルンと言われている。

このようなグルートの中でホップの優位性を明らかにしたのが、ドイツのビンゲンという都市にあったルプレヒトベルク女子修道院のヒルデガルデス院長(1098~1179年)だ。「修道院とビールとカール大帝」でもお話ししたが、当時の修道院は大学のように知識人が集まっていた。ヒルデガルデス院長も医学の知識を持った科学者で、実験を繰り返すことでホップの優位性や最適な使用方法を明らかにして行ったという。

中でも重要な点がホップに強い抗菌力を見つけたことである。それまでのビールは腐りやすくて保存性が悪かった。このため、出来上がってからすぐに飲まないといけないし、遠くに運ぶことも難しかった。それがホップを使うことで保存性が高まり、遠くの都市まで運んで販売することも可能になったのだ。

しかし、この画期的な発見はしばらくの間封印される。領主たちがグルートの生産と販売の権利を独占していて、醸造業者にこの権利を売ることで大きな利益を得ていたからだ。ホップだけが使われるようになると、この利権が損なわれてしまうというわけである。彼らは「ホップは毒」というウソまで広めてホップの使用を妨害したという。

しかし14世紀以降になるとホップを使用するとビールが腐りにくくなることが確認され、次第にホップの使用が広がるようになった。そして1516年にはバイエルンの君主であったウィルヘルム4世が「ビールはオオムギとホップ、水だけを使って醸造すること」という「ビール純粋令」を発布するほどにホップを使用したビールが主流となる。

ここで現代のホップとビール醸造について見て行こう。

ホップは雌雄異株の8~12メートルくらいに成長するツル性の植物で、ビール醸造に使用されるのは雌株にできる「毬花(まりはな)」と呼ばれる部分だ。毬花は葉っぱが花を包み込んで保護する「苞(ほう)」が集まることでできている。

この苞の付け根に「ルプリン」と呼ばれる油を含んだ樹脂が分泌される。このルプリンにビールの苦みや芳香の元となる成分が含まれているのだ。その一つにα酸(フムロン)がある。これが醸造過程で構造が変化して「イソα酸(イソフムロン)」になるのだが、これがビールの苦みの正体だ。また、イソα酸には強い抗菌活性もある。

ホップの毬花とルプリン(村上敦司『ホップの探求』日本醸造協会誌105巻12号より)

イソα酸はビールの泡にも関係している。ビールの泡はイソα酸がオオムギ由来のタンパク質と結合してできたものなのだ。このため、苦みの強い(つまりイソα酸が多い)ビールほど泡持ちが良いと言われている。

現在ホップには多くの品種が存在しているが、苦みが強い「ビターホップ」と芳香成分が強い「アロマホップ」に大別できる(最近では苦みも芳香も強い品種もある)。ビール醸造者はホップを使い分けることでいろいろな風味のビールを生み出している。

ビールの仕込みは麦芽(ばくが)を作ることから始まる。麦芽はオオムギに水を含ませ発芽させたのち、乾燥させることで作られる。次に麦芽をくだいて水と混ぜて温めると、麦芽中の酵素の働きでデンプンからブドウ糖が作られる(このブドウ糖が酵母の発酵によってアルコールに変換される)。

糖化された麦芽の液にはムギの殻やもろみなどの固形物があるためろ過を行う。ろ過されたものが「麦汁(ばくじゅう)」だ。この時に最初に出てきたものが「一番搾り麦汁」で、某社の一番搾りビールにはこの麦汁だけが使われている。通常のビール醸造では残った固形物中の成分をさらに湯で抽出した「二番搾り麦汁」も合わせて使用されている。

こうしてできた麦汁にいよいよホップを加えて煮沸する。この熱処理でα酸がイソα酸に変わる。十分に煮沸を行うとイソα酸がたくさんできてビールの苦みが増す。一方、芳香成分は揮発性のため煮沸が長いと芳香が少なくなってしまう。このため煮沸をやめる直前にホップを加えるビールもある(例えばドイツのピルスナー)。つまり、ビールごとにホップを入れるタイミングや回数が異なっているのだ。

煮沸にはもう一つの重要な役割がある。ホップの成分がオオムギのタンパク質やにおい成分と結びついて沈殿することで、ビールに輝きのある清澄さを生み出すのだ。

麦汁は煮沸後に再びろ過されたのち、酵母が加えられて発酵が行われる。この発酵過程でブドウ糖からエタノールが作られるとともに、ホップの芳香成分が変化してビール特有の芳香が生まれると考えられている。

このようにホップはビール造りに欠かせない材料なのだ。