食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

12世紀ルネサンスと大学の始まり

2020-12-14 23:44:36 | 第三章 中世の食の革命
12世紀ルネサンスと大学の始まり-中世盛期のヨーロッパと食(11)
今回で中世盛期のヨーロッパの話は終わります。次に続く中世後期では大飢饉やペストの大流行、そして英仏間の百年戦争(1337~1453年)などが起こり、暗黒時代と呼ぶにふさわしい様相を呈します。

今回は中世盛期のまとめとともに、12世紀ルネサンスについて見て行こうと思います。

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中世前期(西暦500~1000年)にはゲルマン民族の大移動による社会の混乱や、イスラム勢力の侵攻、ヨーロッパ沿岸部へのヴァイキングの移住、マジャール人のパンノニアへの移動など、たくさんの危機がヨーロッパに訪れた。しかし、西暦1000年頃までに異民族の撃退や同化に成功するとともに、1000年頃から始まる「中世の農業革命」と700年代から続いている気候の温暖化によって農業生産性が向上した結果、農村や都市が発展し、ヨーロッパは「中世盛期(西暦1000~1300年)」の名にふさわしい発展の時期を迎えることになった。

中世農業革命は、鉄の農機具の利用と「三圃制(三圃式)」耕作法が広がった結果始まったものだ。また、鉄の農機具を用いて森林を開墾し、新しい農地を次々に生み出していったことも農業革命の要因となっている。13世紀の耕作地の面積は11世紀の2倍以上になったと見積もられている。

三圃制では耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていく。休耕地では家畜を放牧して糞尿が肥料となることから地力の低下を防ぐことができるのだ。

鉄の農機具を使った三圃制の農地では、重い農機具をウマやウシに引かせるため方向転換が難しくなった。そこで、それまで家族単位で耕作していた農地が村単位でまとめられて、長方形の大きな農地に整えられた。また、農民の住居も一か所に集められた。そして修道院や騎士などの領主は、集落近くに製粉所やパン焼きかまど、醸造所などの共通施設を設置して行った。こうして現代に受け継がれているヨーロッパの農村風景が形成され始めたのである。

農業革命によって食料生産性が向上した結果、人口が増加するとともに余剰分が市場に出回るようになる。すると、一獲千金をねらって冒険商人として商いを始める人々が登場した。彼らは、教会や修道院、騎士の城砦近くに拠点となる集落を作った。すると、このような拠点に多くの商人や手工業者が集まるようになる。

やがて商人たちは領主を買収したり、戦ったりすることで自治権を獲得して行くとともに、街全体を城壁で囲むようになった。また、国王や大貴族、有力な司教たちは経済的な見返りの代わりに自治権を保証するようになった。こうして商人たちによって多数の中世都市が作られて行った。

さて、中世都市で忘れてはならないのが、現代の大学につながる学問の府が誕生したことである。

中世のヨーロッパではローマ帝国で公用語だったラテン語が引き続き書き言葉として使用されていたが、話し言葉はそれとは少し違ったロマンス語などの言語だった。このような書き言葉と話し言葉の不一致のため、文字を書けるのは聖職者などごく一部の人たちだった。

中世盛期に建設された都市に新しい教会や修道院が建てられるようになると、聖職者の養成が急務となる。また、都市を統治するために法律家などの知識人も必要だった。こうした人材を養成するために教会に付属した神学校や法学校が12世紀頃から盛んに建てられるようになった。これが、のちの大学の前身となった。

さらに、古代ギリシアの学問を再び学びなおそうという機運が高まったことも学びの場を発展させる要因となった。

「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でもお話ししたが、古代ギリシアの学問はイスラム世界に受け継がれていた。12世紀なって地中海貿易の発展や十字軍遠征によってイスラム世界との交流が盛んになった結果、ヨーロッパ人が古代ギリシアやイスラムの学問を知ることになったのだ。

ローマ帝国が滅んでからはヨーロッパの学問のレベルはかなり下がっていたため、ヨーロッパの知識人は進んだ学問に熱狂するようになる。彼らは、イスラムから奪還したイベリア半島の都市トレドやシチリア島のパレルモに押しかけて、アラブ語やギリシア語で書かれた書物をかたっぱしからラテン語に翻訳して持ち帰った。そして、この新しい学問も教会付属の神学校や法学校で教えるようになったのだ。

神学校では、ギリシア哲学によってキリスト教の教えの理論化と体系化が行われた。教会付属の学校は「スコラ(schola)」と呼ばれていたことから、このような学問を「スコラ学」と言う。なお、スコラ(schola)は学校(school)の語源とされている。

食の世界における大きな出来事としては、「四体液説」と呼ばれる医学理論が導入されたことがあげられる。

四体液説とは、人間の体液は「血液、粘液、胆汁、黒胆汁」の4つの元素から構成されていて、血液は「熱」と「湿」の性質を持ち、粘液は「湿」と「冷」、胆汁は「熱」と「乾」、黒胆汁は「冷」と「乾」の性質を持つとする考えだ。そして、これらのバランスが崩れると病気になるとされた。この説は、ローマ帝国の医学者ガレノス(129年頃~199年)が、ヒポクラテスの説を基にして作り上げたものである。


    四体液説の概念図

食べ物も4元素(風・水・火・土)からできていて、「熱」「湿」「冷」「乾」の4つの性質のうち2つを持つとされた。例えば、植物は「土」に生えるので「冷」と「乾」の性質を持ち、食べ過ぎると体の「冷」と「乾」の性質が強くなってしまうというわけである。また、魚介類は「水」で、「湿」と「冷」の性質を持つとされた。

さらに、体の中に特定の元素が多くなった場合に起きる病気についても詳細に論じられた。例えば、黒胆汁が増えると、その蒸気が脳へ上って理性を混乱させ、ありもしない想像を生み出すとされたそうだ。

くずれたバランスを戻すための食事は重要で、「冷」が過剰な場合は「熱」の性質を持つ食品を多く摂り、「湿」が過剰な場合は「乾」の性質を持つ食品を多く摂るようにした。このように四体液説が広まった結果、食事によって病気や体調不良を治そうとするようになったのである。

現代の知識から言うと明らかに間違った理論であるが、科学的根拠が無いことが実証されるのは19世紀になってからであり、少なくとも17世紀までは四体液説が広く信じられていたのだ。

以上のように、12世紀になってギリシアの学問が再導入された結果、文化の変革が起きたことを「12世紀のルネサンス」と呼んでいる。