食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

中世ヨーロッパの人口と食とペスト-中世ヨーロッパのはじまりと食(2)

2020-10-26 23:02:05 | 第三章 中世の食の革命
中世ヨーロッパの人口と食とペスト-中世ヨーロッパのはじまりと食(2)
動物は、食べ物が増えるなどして生活している環境が良くなると数が増えます。逆に環境が悪くなると数が減ります。人の場合も同じで、人口の変化は環境の変化に連関していることがほとんどです。今回は、中世ヨーロッパの人口の推移を見て行きましょう。

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下の図は紀元前400年から西暦1600年までのヨーロッパの人口の推移をグラフ化したものだ。



紀元前500年から線を右にたどっていくと、西暦200年までは人口は徐々に増えているが、それ以降は一転人口が減り始める。この人口減少の原因は、本ブログでも何度かお話しした北半球の寒冷化と考えられている。つまり、200年頃から400年頃にかけて北半球の広い範囲で寒冷化が起こり、食料生産が減少したため人口を維持することができなくなったのだ。

そして、食料を求めての民族の大移動が起こる。フン族に押し出されるように、ゲルマン民族がローマ帝国内になだれ込むのだ。これが要因の一つとなって476年に西ローマ帝国が滅亡した。その後も争いが続いたため、西暦600年頃まで人口が減少したと考えられる(ペストなどの感染症の流行も原因の一つとしてある)。

西暦700年代から1200年になる頃までの期間は気候はおおよそ温暖化する。それに呼応して人口も上昇に転じた。この期間の中世前期には、ゲルマン民族がそれまでの狩猟や採集、牧畜を主とした生活から農耕を主にした生活に変化したと考えられている。

西暦1000年以降の中世盛期になると、人口の増加がそれまでよりも大きくなる。この要因となったのが温暖な気候に加えて、「中世農業革命」と呼ばれる農耕技術の発達だ。

1000年頃から西ヨーロッパで鉄の農機具が用いられるようになり、耕地をより深く耕すことができるようになった。そうすることで農産物の生産量を増やすことができたのだ。この鉄製農機具の使用が12世紀頃までにヨーロッパ全体に広がり、より大きくて重いものが作られるようになる。

さらに、11世紀頃に「三圃制(三圃式)」と呼ばれる耕地の利用法が開発された。これは、耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていくもので、地力の低下を防ぐことができる。三圃制も広くヨーロッパ全体に普及して行った。

この鉄の農機具と三圃制の普及によってヨーロッパの農村の姿が作られて行くことになる。

次の中世後期でひときわ目を引くのが、1350年から1400年にかけての人口の大幅な減少だ。これは感染病の「ペスト」が原因だ。14世紀にはヨーロッパだけでなく世界的に流行し、世界人口の4億5千万人のうち1億人が死亡したと言われている。

ペストに感染すると一週間以内に発熱や頭痛などの症状が現れる。そして、皮膚には内出血による黒紫色の斑点ができることから「黒死病」と恐れられた。治療を行わないと6割以上の人が死に至るという恐怖の伝染病だった。

このペストは、モンゴル軍の移動とともに運ばれてきたネズミとノミによってヨーロッパにもたらされたという説がある。また、この頃に北半球では大干ばつが起きており、食べ物を求めたネズミがアジアから西へ大移動を行ったためという説もある。さらに、大干ばつなどの影響によって世界的に食料が不足しており、栄養状態が悪化して免疫能力が落ちたこともペストの大流行を引き起こす原因になったとも言われている。

なお、ペスト菌は、1894年に北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンの2人によって、それぞれ独立に発見されることになる。