食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イスラムの分裂とウマイヤ朝とパエリア-イスラムのはじまり(5)

2020-10-07 17:30:01 | 第三章 中世の食の革命
イスラムの分裂とウマイヤ朝とパエリア-イスラムのはじまり(5)
今回はスペイン料理の「パエリア」が生まれた経緯について見て行こうと思います。



その前に正統カリフの時代からウマイヤ朝の時代までの歴史を振り返ります。

4人の正統カリフは皆ムハンマドの側近であったが、その出自の違いがイスラム勢力の分裂を引き起こす。それが「シーア派」と「スンニ派」への分裂だ。ただし、出自の違いと言っても同じクライシュ族に属するウマイヤ家とハーシム家の対立だ。

ムハンマドはクライシュ族の一支族のハーシム家に属していた。この時メッカの指導層だったのがクライシュ族のウマイヤ家であった。両親を早くに亡くしたムハンマドはハーシム家の長であった叔父に守られて布教活動を始めたが、叔父が亡くなるとクライシュ族の人々と対立しメッカを脱出した。その後ムハンマドがアラビア半島を統一すると、それまで対立していたクライシュ族はそろってイスラム教に改宗した。

正統カリフの全員がクライシュ族出身であるが、第3代正統カリフのウスマーン(在位644~656年)はウマイヤ家に属する。一方、第4代正統カリフのアリー(在位656~661年)はメッカでムハンマドを守ってくれた叔父の息子(すなわち従弟)にあたり、ムハンマドと同じハーシム家に属する。また、アリーはムハンマドの娘と結婚し、二人の間にはムハンマドの孫も生まれていた。

イスラム共同体の指導部では次第にウマイヤ家の発言力が強まって行った。そんな中で第3代カリフのウスマーンは何者かによって暗殺され、アリーが第4代カリフになる。しかし、ウマイヤ家の長を継いだムアーウィヤはそれに納得せず、反乱を起こした。ムアーウィヤ軍は槍の穂先にクルアーンの章句を結び付けて戦ったためにアリー軍の戦意はそがれ、戦いは膠着状態に陥った。最終的に和議が結ばれることになったのだが、これを不服とした過激なグループがアリーを暗殺してしまったのだ。過激派グループはムアーウィヤも暗殺しようとするが、これは失敗に終わった。

こうして残されたムアーウィヤはカリフとなり、それ以降はウマイヤ家が代々カリフを継ぐこととなった。このため、この時代を「ウマイヤ朝」(661~750年)と呼ぶ。

一方、この体制を認めずにムハンマドの血を引くアリーの子孫のみをイスラムの指導者とする「シーア派」が誕生した。それに対してウマイヤ家のカリフ独占を認めたのが「スンナ派」であり、両者は激しく対立するようになる。

ウマイヤ朝の初期はシーア派との抗争によって帝国内の情勢は不安定であったが、7世紀の終わり頃までに反ウマイヤ勢力の抑え込みに成功すると、領土拡張に乗り出した。まず、帝国の東側では、中央アジアとインダス川流域までを支配するようになる。際立っているのが西側方面の領土拡大で、ビザンツ帝国と戦いながら地中海南岸を西進し、北アフリカを征服するとともに、711年にはアフリカとヨーロッパをつなぐジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出し、西ゴート王国を滅ぼした。さらにピレネー山脈を越えてフランク王国内に進入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗れ、イベリア半島まで退いた。こうして、東は中央アジアとインダス川流域に始まり、西は北アフリカとイベリア半島を含む広大な領土を獲得したのである(下図参照)。



さて、ここからが食の話である。
イスラムに征服される前のイベリア半島の住民はほとんどがキリスト教徒であり、パン食をしていた。ここにアラブ帝国の食文化の一つである米食がもたらされた。

冒頭のパエリアは、コメと野菜、魚介類あるいは肉などとともに着色料のサフランを加え、スープと一緒に平たいフライパン(パエリア鍋)で炊きこむスペインの代表的な料理だ。このパエリアが作られるようになったのも、ムスリム(イスラム教徒)がイネやサフランをイベリア半島に持ち込んだからだ。ここに、地中海で採れる魚介類やヒツジ肉などを組み合わせてパエリアが生まれた。

イネは8世紀にウマイヤ朝がイベリア半島を征服した時に持ち込まれた。また、サフランは10世紀頃に同じようにアラブ人によって伝えられたと言われている。アラブ人はコメとサフランのほかに、ナスやタマネギ、ザクロ、モモ、サトウキビなどの農作物をイベリア半島に伝えた。こうしてイベリア半島の食生活は大きく変化して行く。

ところで、イネやサトウキビを育てるためには大量の水が必要だ。アラブ人はカナートなどの設備を作って大規模な灌漑を行い、農耕地や居住地を拡大して行った。現在のスペインの首都マドリードはカナートによって水の便が良くなり、アラブ人の宮殿が建てられたことによって発展した町である。アラブ人によってイベリア半島に伝えられたカナートの技術は、大航海時代になってスペインによって新大陸にもたらされることになる。

なお、イベリア半島からイスラム勢力を完全に追い払うのは1492年のことであり、実に800年近くもイベリア半島はイスラム国家の一部であった。