食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

2つの古代ペルシア帝国ーイスラムのはじまり(1)

2020-09-28 23:10:55 | 第三章 中世の食の革命
3・1 イスラムのはじまりと食
2つの古代ペルシア帝国
古代オリエントの時代になるが、西アジア(中東)の歴史を分かりやすくするために古代ペルシア帝国についてまず見て行こう。

古代ペルシア帝国は、イラン高原の南西部のペルシア州(現在のファールス州)(下図参照)を拠点としていたペルシア人が建てた2つの帝国のことを指す。1つ目のペルシア帝国はアケメネス朝ペルシア(紀元前550~前330年)で、もう1つがササン朝ペルシア(226~651年)である。



紀元前7世紀頃にアーリヤ人の一部がペルシア州に進入し、ペルシア人となった。ペルシア州は高度が1000メートル以上の高原地帯で、降水量が少ないため自然の降雨を利用した農業である天水農業では十分な作物を育てることができない。そこで開発されたのが「カナート」と呼ばれる灌漑設備である。

カナートについては以前に「ペルシアの新しい灌漑技術」で紹介したが、山麓部の水を地下水路によって耕作地まで運ぶものだ。ペルシア人は主に牧畜を行いながら農耕でコムギやナツメヤシなどを栽培していたようだ。
「ペルシアの新しい灌漑技術」はこちら

もともとペルシアは中東の中では小国にすぎず、イラン高原全域を支配していた大国のメディアに服属していた。ところが紀元前550年にメディアを滅ぼすと、さらにメソポタミアを支配し、紀元前525年にはエジプトを併合してオリエントを統一した(下図参照)。



その後アケメネス朝ペルシアはギリシアの征服を目指してペルシア戦争(紀元前500~前449年)を始めるが、マラトンの戦い(紀元前490年)などで敗れ、最終的にギリシアと和平条約を結ぶことでペルシア戦争は終結した。しかし、それ以降もギリシア征服のために干渉を続けた。

ところが、王族内で後継者争いが起こるなどして国力が低下したところに、ギリシア・マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)(紀元前356~前323年)が攻め込んできた。紀元前331年にアレクサンドロス軍とペルシア軍はチグリス川上流のガウガメラで一大決戦を行い、アレクサンドロス軍が勝利した(ガウガメラの戦い)。アレクサンドロス3世はペルシアの中枢都市ペルセポリスを制圧し、また、逃げたペルシア王が部下に殺された結果、アケメネス朝ペルシア帝国は滅亡した。

その後、アレクサンドロス3世が急死すると、彼の征服した地はマケドニアの後継者によって分割統治されることとなった。イラン高原を含む中東の分割統治地域は紀元前312年にセレウコス朝と名乗った。

その後の紀元前2世紀頃には、セレウコス朝に属していた遊牧民族の国家であるパルティアがイラン高原を支配した。パルティアはギリシアの文化や制度を引き継ぐが、ローマとの抗争によって次第に弱体化した。

紀元後226年、農耕民族を母体とするササン朝ペルシア(226年~651年)がパルティアを破って中東を支配する。ササン朝はペルシア州を起源とすることから、アケメネス朝の正統な継承者であると主張した。

ササン朝はイラン高原に加えて230年にはメソポタミアを征服し、621年にはエジプトや地中海西岸域を含む広大な地域を支配下におさめた(下図参照)。



ササン朝はローマ帝国や東ローマ帝国、そしてそれを引き継いだビザンツ帝国と領土をめぐって長期間にわたって何度も激しく争った。この戦いによってメソポタミアから東地中海を結ぶ交易路が大きなダメージを受ける。

商人たちは戦乱を避けるためにアラビア半島南部を通る迂回路を使用するようになり、この結果ムハンマドが活動していたメッカなどが栄えることになる。そして、ムハンマドによってイスラム教が創始された。7世紀にアラビア半島に勃興したイスラム勢力は651年にササン朝ペルシアを滅ぼした。

ここでペルシア帝国の食について見ておこう。
イスラム教以前のイランの料理の記録は少ししか残っておらず、そのほとんどが宮廷料理についてだ。この料理の特徴としては、以前に支配していたギリシアの食文化や周辺のインドやオリエントなどの食文化の影響を受けたものだった。

ペルシア人たちはニワトリの肉と卵がとても好きだったようだ。ニワトリや家畜の肉は主に焼いて食べていた。ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としたが、この宗教は火をあがめており、肉を焼くことには儀式的な意味もあったようだ。

ギリシアからはブドウが持ち込まれており、かなり大掛かりな施設でワインの醸造を行っていた。ササン朝時代の銀製の豪華なワインの盃が現在に伝えられている。また、コメ、タマネギ、挽肉や香味野菜などを混ぜたものをブドウの葉で包んだ料理の記録が残っている。この料理はトルコで現在も食べられており「ドルマ」と呼ばれている。

       ドルマ

ペルシアでは、熱い料理と冷たい料理を同時に食卓に出す風習があったが、これもギリシアの医学理論に基づいていたと考えられている。

一方、インドからはサトウキビが持ち込まれており、砂糖を使った菓子などが作られた。また、インドから入ってきたものだと思われるが、コショウ・ターメリック・シナモン・サフランなどの香辛料が料理の調味料として使われていた。コメをつぶした料理(餅のようなもの?)の記録もある。また、牛乳を使った料理も食べられた。

これ以外に、小麦粉でとろみをつけた野菜のスープや鶏肉のマリネ、肉と穀物をすりつぶしてペースト状にした料理などが人気だったようだ。