食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

茶と唐菓子の伝来-古代日本(7)

2020-09-05 20:24:48 | 第二章 古代文明の食の革命
茶と唐菓子の伝来-古代日本(7)
飛鳥時代(592~710年)・奈良時代(710~794年)・平安時代(794~1192年)と続く日本古代において、9世紀後半までは渡来人を歓迎し、また遣隋使や遣唐使を派遣するなどして中国や朝鮮半島の知識や技術、文化などをどん欲に吸収し模倣した期間である。

なお、遣隋使の派遣は600年に始まり、614年までに5回行われた。また、遣唐使の派遣は630年に始まり、838年までに計17回の使節団が派遣された。1回の使節団は大使以下数百人の規模で、その中には長期滞在する留学僧たちが含まれていた。彼らは日本に帰国したのちは寺院に戻り中国で学んだ仏教を伝えるとともに、食文化などの中国の文化を広めた。このため寺は宗教だけでなく、食文化でも最先端の場だったと言える。

茶の文化も寺を中心に日本に広められた。茶が日本に伝来した時期としては、奈良時代と言う説と平安時代と言う説の二つがある。奈良東大寺の正倉院に収められている文書には8世紀中頃のこととして、写経に従事した人たちに「茶」が提供されたことが記されているが、これは野菜と言う説もあり決着はついていない。また、平安時代後期に編纂された『東大寺要録』には、天平の時代(729~748年)に僧の行基(668~749年)が諸国に49か所の道場や寺院を建立するとともに、茶木を植えたと記されている。さらに、室町時代(1336~1573年)の『公事根源』には、729年に宮中に僧を招いて大般若経を講義し茶を賜ったとあるが、書かれた時代より700年前の出来事になるため真偽のほどは分からない。


(louis_taipeiによるPixabayからの画像 )

中国からの茶の伝来が明確になるのが平安初期だ。805年頃には、唐での留学から戻った最澄と空海がそれぞれ茶と茶種を持って帰ったと伝えられている。また平安初期の『日本後記』には、最澄とともに唐より帰国した僧の永忠が、815年に近江の梵釈寺において自ら茶を煎じて嵯峨天皇(786~842年)に奉ったと記録されている。これに感激した嵯峨天皇は、畿内や近江・播磨の国々に茶を植えることを命じた。嵯峨天皇は茶を好み、貴族社会に喫茶の風習を広めたとされている。995年に書かれた藤原幸成の日記に宮中の茶園についての記載があることから、この頃も引き続いて茶が好んで飲まれていたことがうかがえる。しかし、当時の茶は非常に貴重で、天皇や貴族、僧侶くらいしか飲むことができなかった。

一方、奈良時代には「唐菓子」と呼ばれる菓子が中国から伝えられた。これは、米粉や小麦粉、あるいは豆の粉に甘味や塩味をつけて練り、ごま油で揚げたり、蒸したり、焼いたりしたものである。時には香辛料の丁子(チョウジ、西洋ではクローブと言う)や肉桂(ニッケイ、ニッキとも言う)を入れることもあったようだ。

なお、当時の甘味としては「甘葛(あまずら)」と呼ばれるものがもっぱら使われていた。これはツタの樹液を煮詰めたものだ。ツタは冬になると糖分を蓄積し、厳冬期の樹液は20%もの糖度になる。これを煮詰めると糖度が非常に高くて保存のきく甘葛ができるのだ。古代日本では上流階級で甘葛が甘味づけに使われており、『枕草子』の42段にも削った氷に甘葛をかけて食べた様子が描かれている。つまり、古代でもかき氷が食べられていたことになる。

多くの唐菓子は時代とともに食べられなくなってしまったが、いくつかは現代でも食べ続けられている。その一つが「餢飳(ぶと)」と呼ばれるもので、奈良の春日大社の神饌(しんせん、神様へのお供え物)として神職によって長年作り続けられている。これは米粉を練ってギョーザのような形にし、ゴマ油で揚げたものだ。上手に作るのが難しく、うまく作れるようになってやっと一人前の神職とみなされるらしい。

また、現代のそうめんの原型と考えられているのが唐菓子の「索餅(さくべい)」だ。これは小麦粉と米粉に塩や醤・未醤(味噌のようなもの)を入れて練って細長くしたものと言われており、平安時代には宮中で疫病除けのために七夕に食べられていたらしい。また、平安京の南部の東西に一つずつあった市でも索餅が売られていて、庶民も買って食べることができた。江戸時代にも虎屋が七夕の食事として索餅を宮中に納めている。このため、現在では7月7日がそうめんの日になっている。

そうめんが現在の形になったのは室町時代のことだが、とても高価なもので、宮中や寺院でしか食べられなかった。やがて江戸時代になると民間でも食べられるようになり、特に播州(兵庫県南部)のそうめんが有名だったそうだ。

唐菓子のほとんどが残っていないのは、9世紀後半から日本特有の文化を創り出す機運が高まり、日本人の嗜好や習慣に合う食べ物以外は姿を消してしまったからだと考えられている。