食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

後漢の終わりとヒツジと古代中国人-古代中国(7)

2020-08-11 21:54:41 | 第二章 古代文明の食の革命
後漢の終わりとヒツジと古代中国人-古代中国(7)
最初は順調だった後漢王朝(25~220年)であったが、2世紀に入ると国勢が次第に傾いて行った。その主な原因が宦官による私利私欲の追求だ。前漢王朝と同じように後漢王朝でも宦官と外戚が権力を得て政治に介入してくるようになったのである。やがて宦官は外戚を排除し、実権を握るようになる。儒教を学んだ真面目な官僚たちは宦官と争ったが、数百人もの者が粛清されてしまう(党錮(とうこ)の禁)。

一方で、前漢時代に地主となった裕福な農民はさらに力をつけて豪族となっていたが、彼らは貧しい農民を次々に取り込んで自分の配下にすることでますます力を蓄えて行った。この中から曹操や孫堅などの乱世の中で覇権を競い合う者たちが出てくることになる。

後漢の末期になると地方では「黄巾の乱」などの新興宗教による反乱を契機として貧しい農民による反乱が起り拡大していった。なお、後漢末期頃(200年頃)から気候が寒冷化し、農産物の生産量が減っていったことも農民反乱の要因となっていると考えられている。

結局、後漢王朝は反乱を抑えることができず、各地の豪族などの有力者たちが独自に覇権を争うようになる。いち早く華北を制したのが曹操で、その子の曹丕が220年に後漢王朝から帝位を譲り受けて魏王朝を樹立したことによって後漢の時代が終わりを告げた。一方、長江より南では孫権が呉を建て、中国西部では劉備が蜀を建てることによって三国時代に突入する。なお、三つのいずれの国でも豪族たちが大きな権力を有していて、帝との共同統治という様相が強かったのがこの時代の特徴である。

蜀は劉備と諸葛孔明が死去すると国勢が衰え263年に魏に飲み込まれる。一方の魏では武将の司馬懿(しばい)(仲達)が実権をふるうようになっていたが、その孫の司馬炎が265年に帝位を奪って武帝(在位265~290年)となり晋を建てた。そして、280年に晋が呉を滅ぼすことで三国は消滅し、晋が中国を統一することになった。


       晋の武帝

晋の武帝は覇権を獲得すると政治に興味を失い、酒食にふけるようになったという。彼は1万人もの女性を集めて後宮を作った。そして、毎夜ヒツジに引かせた車に乗って後宮におもむき、ヒツジが停まった部屋の女性と一夜を共にしたそうだ。女性たちはヒツジに停まってもらうために部屋の前に竹をさし、塩を盛ったそうだ。アルプスの少女ハイジでもヤギにごほうびとして塩をあげるシーンがあるが、ヒツジやヤギなどの草食動物は塩が大好きだからだ。

さて、晋の武帝は国を安泰にするために、一族の有力者たちに王国を作らせてそれぞれに大きな権力を与えていた。各王は匈奴など五胡と呼ばれた北方民族を傭兵として軍事力を強化して行った。ところが、武帝の目論見は大きく外れてしまう。290年に即位した恵帝が愚かだったため、各王が皇帝の地位を求めて各地で兵を挙げて内乱状態になったのだ(八王の乱)。有力だった8人の王のうち7人は非業の死を遂げ、景帝も怪死した。何とか306年に新しい皇帝が立つことで内乱は一応おさまったが、晋の国力が大幅に落ちるとともに中国の中心であった中原地方は荒廃してしまう。一方、傭兵だった北方騎馬民族は自身の武力の大きさを自覚することとなり、中原地方は五胡が支配する地帯になる(五胡十六国)。

それ以後、589年に隋が統一するまで中国は混乱を極め、江南では東晋・宋・斉・梁・陳の諸王朝が次々と樹立され、華北では五胡十六国の時代を経て北魏が建つが、その後は西魏・魏・北斉・北周が興亡を繰り返した(南北朝時代)。

ここで、530~550年頃に書かれた農書『斉民要術(せいみんようじゅつ)』で、当時の中国人が食べていた「肉」について見てみよう。
古代中国人にとって肉と言えばウシでもブタでもなく「ヒツジ」だった。斉民要術にはたくさんの料理のレシピが載っているが、肉料理の大部分がヒツジを使ったものだ。例えば、煮込みスープ料理(羹(あつもの)という)では約4割が羊肉で、次に多い豚肉料理は羊肉料理の3分の1しかない。次に多いのがカモで、それ以外の牛肉や鶏肉はほんの1例ずつしか掲載されていない。

ヒツジはとにかく中国人には縁起の良いもので、神様へのお供え物の定番でもあった。また、手柄があった部下にはほうびとしてヒツジと酒を贈るのが習わしだったことが漢代や晋代の書物に記されているという。漢代にはヒツジを丸焼きにして、めいめいが刀で切り取って食べる遊牧民族的な食べ方が流行ったという。

ヒツジが縁起の良い動物だったことは文字からも分かる。めでたいことを表す「祥」という字があるが、これには「羊」の字が使われている。後漢の『説文解字』には「羊」は「祥」であると書かれているという。「善」や「義」という字も「羊」が使われ、どちらも良い意味を持っている。「美」は羊のアクセサリーを付けた美しい人を表しているそうだ。また、「鮮」は「魚」に「羊」が組み合わさっているが、これは鮮魚の意味で、新鮮な魚はとても美味しいことからこの字になったらしい。

ところで、「羊羹(ようかん)」というお菓子があるが、本来は「羊の羹(あつもの)」、すなわち羊肉の煮込みスープ料理だった。これは冷えると煮こごりのように固まるという。この料理は鎌倉時代から室町時代に中国に留学した禅僧によって日本に伝えられたが、仏教では肉食が禁じられていたため羊肉の代わりに小豆を使った。これが日本の羊羹の原型になったとされている。