食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

漢王朝と食文化の広がり-古代中国(4)

2020-08-05 21:08:53 | 第二章 古代文明の食の革命
漢王朝と食文化の広がり-古代中国(4)
紀元前221年に秦が中国を統一し、秦王朝(紀元前221~前206年)を建てる。たった11年間の短い治世だったが、秦の始皇帝(紀元前259~紀元前210年)は後世に残る様々な改革を行った。

彼は全国を郡に分け、各郡の長官を中央が任命する「郡県制」を導入した。これが、その後中国で長く続く中央集権的国家の始まりとなる。また、度量衡・貨幣・文字の統一や、全長12000㎞に及ぶ全国的な道路網の整備と車輪の幅の統一(車輪が通った跡が同じになるので通りやすい)など、その後の中国社会の基盤が始皇帝によって整えられた。


   秦の始皇帝

秦(Chin)はラテン語のSinaeや英語のChinaなどの語源となるように、秦の遺産はとても大きかったと言える。

始皇帝の死後、後継者の治世がうまくいかなかったことや、秦王朝の国民に対する締め付けがとても厳しかったことから国は混乱状態に陥り秦は滅亡する。そして、項羽と劉邦が次の覇権を争って戦った結果、貧農の子の劉邦が勝利して初代皇帝の高祖となり漢王朝(前漢)(紀元前202~紀元8年)を樹立した。漢は秦の制度を受け継いだが、人民の不満を避けるために緩やかな中央集権化社会を作るとともに、税の軽減などを行った。

漢王朝が最も栄えたのが第7代の武帝(紀元前156~前87年)の時代で、中央集権化を推し進め、儒教を国教化するとともに、武官に対して文官の方が優位とする原則を打ち立てた。

武帝は異民族の支配地域への遠征も盛んに行った。中でも北方の遊牧騎馬民族である匈奴には長年にわたって苦しめられていたため、紀元前129年より大規模な遠征を開始する。後に武帝の皇后になる衛子夫の弟の衛青や甥の霍去病(かくきょへい)などの活躍によって、紀元前119年には漢王朝の西方地域から匈奴勢力を一掃した。



武帝は一方で、匈奴に敗れて西方に逃げた大月氏と連携して匈奴を討つために、紀元前140年頃に使者の張騫(ちょうけん)を西方に送り出していた。張騫は途中で匈奴に捕まり10年にわたって幽閉されるが何とか大月氏国にたどり着く。ところが、大月氏は既に匈奴を討つ気を失っており、張騫は失意のままに帰国することとなった(途中で再び匈奴に捕まるが、1年ほどの幽閉の後に逃げ出した)。

武帝は、張騫から西にはたくさんの大国があることを聞いてたいそう驚いたという。そして、匈奴と敵対する烏孫国との連携を新たに提案してきた張騫を再び西方に派遣した。結局、今回も烏孫との連盟は成立しなかったが、張騫は烏孫の使者を連れて帰国するとともに、部下をインドやペルシア諸国に派遣した。その後、部下たちも各国の使者たちと帰国する。使者たちは西方の情報を漢王朝にもたらすと同時に、帰国して大陸の東方に漢という強国が存在していることを自国民に知らしめることになった。こうして、中国王朝と西方諸国との結びつきが生まれ、商人などの人々や物資の行き来が開始されるのである。

この東西の交流によって、西方社会からはブドウやザクロ、クルミ、ニンジン、キュウリ、タマネギ、コショウなどの食べ物が中国に入ってきた。なお、コショウ(胡椒)の「胡」は西を意味していて、西にある山椒のようなものと言うことである。

さらに、漢時代に西から入ってきた食材として重要なものにコムギがある。このコムギは製粉技術と一緒に中国に伝えられた。中国と言えば「麺」だが、麺はそれまではアワやキビなどで作っていたのだが、コムギが伝わると麺をコムギで作るようになる。まさしく、中国麺の一大革命がこの時代に起こるのである。

一方、中国からはモモやアンズ、ナシ、お茶などが西方社会に伝えられた。モモはヨーロッパに伝わると品種改良されて黄色のものが生み出され、各地に広まっていった。また、アンズは甘みが強いものが生み出され、アプリコットと呼ばれて好んで食べられるようになる。

このように、東西の交流が始まることによって、双方の食文化が豊かになって行ったのだ。