食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

後漢と儒教と孔子の食生活-古代中国(6)

2020-08-09 23:59:44 | 第二章 古代文明の食の革命
後漢と儒教と孔子の食生活-古代中国(6)
新王朝を開いた王莽は儒学者だった。しかし、理想を追い求めるあまり世情に合わない的外れな政治を行ったために社会の不満が高まり、地方の貧農を中心とする反乱が相次いだ。その一大勢力が山東の赤眉軍(せきびぐん)である。これに呼応して各地の豪族も王莽打倒に立ち上がった。その中で有力だったのが漢王族の血筋をひく劉秀(りゅうしゅう)(紀元前6~57年)である。赤眉軍と劉秀の軍は協力して王莽を討ち、新を滅ぼした。その後少しの混乱があったが、最終的に劉秀が光武帝(在位:25~57年)となり、後漢王朝(25~220年)を建国した。



光武帝は行政の規模を縮小し、農民の税を軽減したり農民からの徴兵をやめたりすることで彼らの負担を軽減した。この結果、農民は貧しさから抜け出すことができた。また、前漢時代の貨幣を復活させることで経済も安定した。こうして世の中は再び平和な時代に戻ることができたのだ。

さらに光武帝は、学問の力でも社会を安定化しようとした。それが儒教の国教化をさらに強化することだった。その結果、社会の制度や風俗は儒教を中心とするものに変わっていったという。これはその後、日本を含む周辺国にも大きな影響を及ぼすことになる。

儒教は孔子(前551~前479年)を始祖としている。彼は子供が親に従う考を核にすえて、人間相互の愛情と信頼である仁に基づいて、礼(一定の規範)をもって行う道徳政治の実現を説いた。つまり、政治家の育成が儒教の根幹にあった。

孔子の教えは「論語」に記されているが、ここで、孔子が食についてどう考えていたかを、論語の「顔淵」の章に記されている弟子の子貢との問答から見てみよう(かなり私の意訳が入っています)。

「子貢が政治の中で最も重要なことについて尋ねた。 師は、食を豊かにすること、軍備を充実させること、国民の信頼を得ることだと答えられた。 子貢はさらに尋ねた。三つのうちでどれか一つをやめなければいけないとすると、どれでしょうか? 師は、それは軍備だと答えられた。子貢はさらに尋ねた。残りの二つのうちでどちらか一つをやめなければいけないとすると、どうでしょうか? 師は答えられた。食だ。人はいずれ死ぬから、国民の信頼を保てるのであれば、皆が飢えて死ぬ方が良い。」
いかにも政治家であった孔子の言葉にふさわしいと思える。

論語の「郷党」の章では孔子の生活についても記されている。その中の食生活に関わる部分について抜き出してみよう。

「米は精白されたものを好まれた。なます(獣肉や魚肉の生食料理)はできるだけ細いものを好まれた。すえて味の変わったご飯や、くずれた魚や腐った肉は決して口にされなかった。色の悪いもの、においの悪いものも口にされなかった。煮加減の良くないものも口にされなかった。季節はずれのものも口にされなかった。包丁の使い方が正しくないものも口にされなかった。料理に適した醤が無い時は料理を口にされなかった。肉は多くてもご飯の量を越えないようにされた。ただ、酒の量を決められていなかったが、乱れるほどには飲まれなかった。店で買った酒や肉は口にされなかった。ショウガは残さないで食べられた。大食はされなかった。主君のお祭りでいただいた肉はその日のうちに食べられた。家のお祭りの肉は3日以内に食べ、3日を越えたら食べられなかった。食べる時にはお話しにならず、寝る時にもお話しにならなかった。粗末な飯や野菜の汁のようなものでも食事の前に一つまみ取って器の外に置き、料理を考案した先人に感謝をささげられた。そのお姿は敬虔そのものだった。」

孔子は普段食べる料理にも細心の注意を配っていたようで、不衛生なものは避けて節度を保った食事をしていたようだ。また、「米は精白されたものを好まれた」「煮加減の良くないものも口にされなかった」「包丁の使い方が正しくないものも口にされなかった」とあることから、かなり食にこだわりがあったこともうかがえる。

ここで、「料理に適した醤が無い時は料理を口にされなかった(其の醤を得ざれば食らわず)」という部分に注目してみよう。「醤(ジャン、ひしお)」とは塩漬けの食品のことで、原料が魚なら魚醤になるし、獣肉なら肉醤となる。これらの食材を塩漬けにして置いておくと、食材の中の分解酵素が働いてどろどろのペースト状になる。これを、古代中国では調味料として使っていたのだ。つまり「其の醤を得ざれば食らわず」とは、それぞれの料理の味付けに適した醤が存在していて、それが無い場合には食べなかったということになる。周王朝の時代には醤は魚醤と肉醤しかなかったが、魚も肉のいろいろあることから、それぞれの料理に適した醤があったようだ。

漢王朝の時代になると、醤は豆やコムギでも作られるようなった(穀醤(こくびしお)と呼ばれる)。この頃には醤は非常に好んで使われたようで、司馬遷の「史記」には醤を売って大金持ちになった男のことが書かれている。また、後漢代の書物にも、お椀に入った醤を独り占めするために自分のツバを入れたのだが、それを見た周りの者が怒って鼻水を入れたので誰も食べられなくなったという話があるそうだ。

なお、大豆の醤は、どろどろになる前に食べたところ美味しかったことから「未醤(みしょう)」と呼ばれ、のちに「味噌」となったと言われている。