微差を積み重ねること、始末をきちんとする事を目指します。悩まずに行動に移します。
毎日0.1%でも
氏神様参拝290

今朝も参拝はお休みです。
氏神様参拝352、玄米食388です。
新しくいただいた和合円満のお札は、双身毘沙門天様のお札で、金色の良いお札です。
色々と気づきを下さっているように思います。
仏教では八識というのがあり、眼耳鼻舌身意+末那識(まなしき)+阿頼耶識(あらやしき)だそうです。
末那識は自我、阿頼耶識は潜在意識とのことです。
末那識はWikipediaには次のように書かれていました
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また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと
末那識は常に第八識を縁じて、自我という錯覚を生じる。
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この最後の「自我という錯覚を生じる」というのがじわじわと迫ってきます。
昨日、「自分の考えを持つ」という自我が強いため反省した、と書きましたが、これにこだわっていることがよくなかったのだなと思えたのです。
次に阿頼耶識ですが、Wikipediaには「はたらき」として次のように書かれています。
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ある人の阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習(くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。
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この種子は
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植物の種子のように、いろいろの現象を起こさせる可能性であり、可能力のことをいう。それは、もともと、ある現象が影響して自らに習慣的な刺激によって植えつけた印象である
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とあります。
「阿頼耶識にこれまでのカルマや行動の結果があって、それが私の生活の現象を作りまた新しい種子となっていく」
というふうにとりあえず理解しました。
両親が「良く考えるように」と言った種子を私が日頃から大事にして実践し、外部の文化も理解しなさいという意識が、どんどん薫習した結果やや常識的でないところがある今の私がある、といった感じでしょうか。
そうすると日頃の生活を良心に沿って生活することは、良い習慣を薫習して新たな種子を作っていくのでさらに心が洗われていくということになるかと思います。
氏神様参拝という習慣は神社の清らかな空気で穢れを祓うことになりますし、読経やご真言の念誦はそのこと自体が功徳となり良い種子を作っていくと思われます。
私にはまだ色々なカルマが阿頼耶識にあって、それらが礼拝、読経、ご祈祷によって顕在化してきているということなのでしょう。
どこかでカルマを帳消しにするようなことをしたかったようですが(欲張り)、それは無理があるようですね。。
毎日丁寧にお勤めをして、仕事をするが結局一番の早道のように思えます。
でもその一方で
「わかっている」「わかった」という意識はノイズあるいは幻想かもしれませんが、自我は喜びます。
没入(あるいは三昧)が本当に楽しいのに、幻想が世の中には溢れている。お金なども幻想なのに、食べきれないほどの食べ物も不要なのに、幻想を見させるのは一体何なのか?
ちょっと思い切って生活に没入してみたいと思います。
皆様のご開運を謹んでお祈りいたします。
今日もありがとうございます😊🙇♀️
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