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氏神様参拝0168

おはようございます。
今朝も参拝しましたよ。
玄米食は続いています。
玄米食055です。運動はそのまま運動061です。玄米食が運動に追いつきそうですね。

参拝も毎日続いているので参拝0170です。

この数字については、そもそもは1万日精進(約30年間、カウンターは9999まで)と思ってブログタイトルに番号を書きはじめたのですが、最近はブログを書かない日もあるのでタイトルに書いている数字は「氏神様参拝」に関するブログタイトルのカウンターの意味も出て来てしまいました。
なので実際に参拝を続けた回数は、今後は文章の中に書こうと思います。
(どうでもいいことですし、厳密な回数でもないですが・・・😁)

昨日書いていた「データを知る」は明日以降続けていきます。データの見方のチュートリアルがあったので、その内容に沿って進めていこうかなと思案しています。

さて、最近は沢山やることがあるのですが、未熟なところもあって感情的になってしまうこともあります。

今日は感情に関連して心を磨くことについて考えてみたいと思います。

心を磨くというのは、自分でやったらよくないなぁと思っていることをできるだけやめて、良いなぁと思っていることをすぐにできるようにするといったような意味です。

人には性格のいい悪い、というのがあります。これは絶対的な判断基準があるわけではないです。常に明るい人もいれば、怒りっぽい人、くよくよしがちな人など色々です。

私は性格についてはできるだけ普段から穏やかな精神状態でいることが望ましいと思っています。
なぜなら、落ち着いていれば簡単にできることでも、焦ったりしていると間違えてしまうことがあるからです。(私自身はくよくよしたり、焦ったりしがちです。)

注意すれば問題なくできることを間違えてしまうのは、せっかく授かった人生を無駄遣いすることになるので、大げさに言えば、神様に申し訳ない、という風に考えることができます。

このような精神の安定や性格の極端な癖に注意するのは、勉強以上に大切な時もあると思います。しかし、私たちは自分の欠点を正面から見つめるのはつらいです。また、小さい頃から優秀な方は優秀なゆえに癖に気づきにくいということもあるようです。また、逆に癖を良く知って優秀になる方もおられます。

癖に気づけない場合は、「癖」を「自分そのもの」と認識してしまい、認知の癖を矯正するきっかけがつかめないこともあります。

一方、勉強が特に得意でなくても、人様から叱られる場面が多くて癖に気づき、性格的に磨かれて、落ち着いて仕事がこなせる方も多いです。
世間様や仕事により御霊が磨かれる、というわけです。

もちろん優秀かつ御霊磨きができる方もおられますし、優秀でなく、叱られても悪癖を治そうとしない方もおられます。
私の悪癖も完全には中々なおりませんが…。

生まれついての能力を比較して私たちは一喜一憂してしまいますが、それには限りがあります。運動能力は落ちてきますし、脳も若い頃ほどには伸びなくなります。しかし、心を磨くこと(悪癖を直すこと)は限りがありません。無限大です。宇宙のように広くすることもできます。

なので私たちは能力を磨くと共に心も磨かなければなりません。仕事や生活の質を上げようと努力することは、心を磨くことにつながりなす。
私は(色々な努力を通じて)心を磨いていると、神様は喜び、様々な知恵を授けてくださるように思っています。

私たちがきれいなモノを見て感動するように、神様も我々の良く磨かれた心を見て喜んで下さるというイメージです。

以前、神社で巫女の方が大変美しい所作で礼をされるのを見てとても感動したことを思い出します。

お預かりしている心を普段の努力により美しくするこは、顔や身体とちがって物質ではないので、どこまでもきれいにできるように思います。
どこまでもどこまでも見通せるような美しい心を持ったら、それはそれは幸せな気持ちになると思います。

最近では、物理的に宇宙に行くことが話題になりましたが、宇宙全体に広がる澄んだ心を持てるように努力することも、大変ロマンがあるように思います。

毎日厳しいニュースが続きますので、靴を磨くように心も毎日磨かなければなりません。
風雪に負けない美しい心を持ち続けたいですね。

今日もありがとうございます🙇


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