徘徊オヤジの日々是ざれごと

還暦退職者が、現在の生活と心情、そしてちょっとした趣味について綴ります。

老いの日々・・・8

2013-07-30 09:11:57 | 老いの日々
博物館学芸員

 近頃は市町村や新聞社等が主催して、特に中高年者を対象に、生涯教育とかカルチャースクールと称してさまざまな講座が設けられている。また各地にいろんな博物館等があって、そこでも同様の活動が行われている。

 私も退職してから何度かこうした講座や活動に参加させてもらっている。私がひかれるは主に自然に関する活動で、室内で講義形式のこともあれば、バスで現地に出向くこともある。参加した会はどこも盛況で、多くの熱心な中高年であふれていた。

 どの活動に参加しても感じるのは、一つは講師やガイドの方のリーダーシップのあり方である。だれもが快活で、適度にユーモアをまじえ、参加者をあきさせない話術をそなえていて、大勢のわがままな中高年を適切に導いていて、まさしくエンターテイナーそのものだった。

 そしてもう一つ感心したのはその博識さである。細かなことまでていねいに説明してくれ、またわれわれの気まぐれな質問――多くはその分野に関する質問であるが、飛躍した質問にも――適確に答えてくれていた。

 おそらく彼らは、子どものころから興味を持っていたからそうした仕事につき、またあらかじめ現地を下見したうえで本番に臨んでいるのであろうが、特別に人を導く技術を教えられたとは思えない。たぶん長年の経験と努力のたまものなのだろう。

 若いころ私は、博物館学芸員という仕事があることを知り「自分の好きなことを仕事にできていいな」と思ったこともあるが、「どんな仕事も楽しいだけの仕事などない。どの仕事にも人知れぬ苦労があるのだ」ということを、今さらながら痛感している。

人生の終章を迎えて・・・73(第4章・・・8)

2013-07-28 10:54:18 |  (第4章 施設への入所は)
施設版の尊厳死の要望書

 そしてまた私は、この状態がもう一歩進んで、死が目前に迫った終末期になったときも、病院ではなくそのままその介護施設が担ってくれないかと考えています。

 先に述べたように私は、終末期における手助けも、点滴などのいわゆる医療的対応まで行う必要はなく、介護施設でできる程度の手助けで十分と思っています。しかし後に述べるような「看取り介護」を積極的に行っている施設は多くありません。

 だから今私は、上述したような意思をはっきりさせるために、尊厳死の宣言書の施設版を考えています。尊厳死の宣言書とはあくまで病院の医師に提出するものですが、そうではなく介護施設の長もしくは嘱託の医師に提出することを念頭においた“尊厳死の要望書”です。

 「この先もし私が重大な疾病等で回復困難な事態になっても、点滴も経管栄養も必要ありません。だから病院ではなく是非ここで看取っていただきたい」といった文面を、今私は考えています。  (人生の終章を迎えて…74)に続く…

人生の終章を迎えて・・・72(第4章・・・7)

2013-07-26 08:44:53 |  (第4章 施設への入所は)
まさに運次第

 また施設に入所するためにはそもそもその施設に空きがあることが必要で、さらに高額な入居金や月々の支払いを要すことも多く、現実には、地域と空室の有無と金額によって決めるしかなく、中身を検討して選ぶところまでいかないのが実際でしょう。自宅を処分してようやく入ったが、「事前の話と全然ちがった」という声を聞くことも少なくありません。

 またたとえ詳細に検討して希望通りの施設に入所したとしても、年月を経れば職員の顔ぶれも運営方針も変わっていくでしょう。そもそも民間の施設には倒産の危険性もあります。また施設選びに失敗したからといって、簡単には別の施設に移れません。

 だからこの見極めは実際にはかなりむずかしくて、運・不運に左右される部分がたぶんにあります。

 こんな不安要因は多々あっても、それでも今私は、私が年老いたときの生活の場として、経済的事情が許し、また空きが確保できるなら、どこかの介護施設へ入所するのが最善だと考えています。  (人生の終章を迎えて…73)に続く…


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 また旅行でしばらく更新できませんでした。

十勝の里山をあるく・・・35

2013-07-19 07:49:50 | 十勝の里山をあるく
新得町・狩勝ポッポの道(旧狩勝線跡①)

 狩勝峠に鉄道が開通したのは、北海道開拓と軍事上の必要性から意外と早かった(明治40年)のですが、この付近は急勾配・急カーブが多く、トンネル内の煙害もひどかったため、その後新線が計画・建設され、1966年に切り替えられました。

 しかし旧線の新得-旧新内駅間は実験線として残り、車両脱線実験など多くの実験が行われていましたが、これも1979年に廃止され、現在その跡がフットパス(歩くための道)になっています。

 この日は「新得そばの館」から北方、旧新内駅まで歩きました。

 途中に急行まりも号の脱線現場がありました。まりも号事件とは、昭和26年、釧路発函館行き急行もりも号が脱線して横転。幸い死者はなかったのですが、何者かがレールを故意にずらしたためで、警察による広範な捜査が行われたのですが、決め手がなく、ついに迷宮入りとなった事件です。

 それからここにもバッタ塚がありました(ヤブで見えなかったのですが)。旧新内駅には蒸気機関車が置かれ、足でこぐトロッコ列車の発着点となっていました。

 また以下の地図には、上記の実験線がまだ載っています。


ポッポの道


バッタ塚(この奥にあるらしい)


まりも号脱線現場


旧新内駅


←2万5千分の1地形図「新得」より

←このあたり

鳥になりたい・・・7

2013-07-16 08:26:43 | ・鳥になりたい
 1カ月後、ジミーは完成した羽を持って丘の斜面に向かいました。南風が吹く日は決まって、丘は下から吹き上げるような風になるのです。

「今度はきっと成功する。今までとは材質からちがうのだから。それに炭鉱で働いたおかげで、ぼくの腕はこんなに太くなったのだ」

 ジミーは自信を持っていいます。けれども腕が太くなった以上に、彼の体全体も大きく重くなっています。ジルはそのことに気づきましたが、何もいいませんでした。

「これで成功したら、あの崖から飛び降りるんだ。そうするとすごいぞ。街じゅうをながめて、空の散歩ができるんだ」

 ジミーはほぼ1年ぶりの飛行にやや興奮気味です。両腕に羽を取り付け、鳥のように振り下ろすと、大きな風がおこってきます。体も浮き上がるようです。

 ジミーは蝶のように羽をひらひらさせながら斜面を下ります。そして少し土が盛り上がったところで思いっきり足でけって、空中へ飛び出しました。一瞬、空へ舞い上がったように見えましたが、次の瞬間にはジミーは地面にたたきつけられ、ぐにゃっと曲がった羽とともに、斜面をころがっていました。完全な失敗です。幸いにジミーの屈強な体はかすり傷を負っただけですみました。

 2人は壊れた羽をかかえながら、意気消沈して作業場にもどりました。ジミーは、顔はこわばり、唇はわなわなと震え、一言もいいません。今度の飛行にはかなりの自信を持っていただけに、よほどこたえたようです。ジルはなぐさめる言葉もありません。

 まる一日死んだように眠ったジミーは、次の日いいました。

「もう半年だけ炭鉱にいってくる。そしてもう一度だけ挑戦する。空を飛ぶことをどうしても忘れられないんだ」

 ジミーはすぐにでも次の羽の製作に取りかかりたかったのですが、何せもう資金がありません。生活費も底をついて、これ以上ジルの世話になっているわけにもいきません。

 両親は何度も、もうあきらめて今からでも靴屋を手伝うようにいいました。ジルもフリースも一緒になってすすめます。けれどもジミーは子どものころからの夢をすてることなどできません。空を飛ぶことは今やジミーの生きる目的そのものでした。夢をすてることは死ねといわれることと同じです。

 次の日まだ暗いうちに、ジミーは旅支度を整え、一片の置手紙を残して、そっと家を抜けだしました。手紙には、両親や友人たちへの感謝の言葉がつづられ、『半年したら必ず帰ってくる。それで失敗したら、そのときはいさぎよくきっぱりとあきらめる』と書かれていました。

(鳥になりたい…8)に続く…