その頃、積立預金の勧誘の為に、閉店後二人一組で会社周辺の戸別訪問をしたことがあった。
同僚と二人で回ったのは、大型のマンションだった。
チャイムを押してドアの前で待つのだが、大抵の場合不在で、誰にも会うことなく次々にマンションのドアからドアへと移動して行った。
あるドアの前に立つと、当時としては珍しく防犯カメラが設置されていた。
チャイムを押すとドアが開き、体格の良い坊主刈りの男性が出て来た。
やっとお会いできたと思った私は、早速預金の勧誘トークを始めた。
その男性は口元に笑みをたたえていたが、目元は全く笑っていなかった。底冷えする程眼差しが冷たく、彼が普通の人でない事は直ぐに分かった。
勧誘トークを短めに切り上げ、相手からはやんわりと断りの言葉を受け、そそくさと一礼してドアを後にした。
元々そのエリアには“その筋の人”がいると聞いていたので、多分そうだったのでは無いかと思った。
再び、不在ばかりで空振りが続いた後、ドアを開けてくれたのは、頭が真っ白な70歳前後の小柄なお年寄りだった。
今度は同僚が勧誘した。すると、
「明日用意しておくから、お昼ごろいらっしゃい」と言われた。
預金獲得の約束を得て、笑顔満面で
「ありがとうございます。では、明日参ります。」と二人で一礼して、マンションを後にした。
翌日の昼、同僚は業務が多忙で手が離せなかった為、私が行くことにした。
書類袋に必要書類を入れてマンションへ伺った。
昨日のお年寄りは、私が一人で訪れたことを知ると「なんだ、あんた一人か」と、ちょっと失望したようだった。
「ちょっと、上がんなさい」と言われ、お宅にお邪魔した。
直ぐに書類に記入してもらって帰ろうと思っていたが、
「うなぎを頼んだから、食べて行きなさい」と言う。
予想外の出来事に戸惑ったが、ご厚意を無駄にしても申し訳ないとも思った。
お年寄りは、元国鉄の職員であった事を誇らしげに語り、奥様は今旅行中だと言う。
「そうなんですかー」と相づちを打ちながら、早く会社に戻らなければと内心落ち着かなかった。
そうしている内にうなぎが届き、確か食べたと思う。急いで食べたのだと思うが、味も何も全く覚えていない。
食べながら聞いたのだと思うが、
「風呂に入ってもらおうと思って、水を貯めたんだ。慣れないから苦労した」とお年寄りが言った時には、声にこそ出さなかったが「えっ?」と思った。とんでもない事だ。こうしては居られない。
食べ終わって直ぐに契約の書類を出して、彼に書いていただくよう促した。
社に直ぐ戻らなければならないので、残念ながらお風呂に入る事は出来ないとも伝えた。
契約はしてくれたが、明らかに気分を害している様子だった。
契約の書類を書類袋へ収めさっさと帰ろうと、ご馳走になったうなぎと契約のお礼を告げて、玄関に通じる廊下へ差し掛かった時の事だ。
持っていた書類袋が不意に奪われ、ポイッと廊下横の部屋に投げ入れられた。
あっという間の出来事だった。
書類袋の行方を見ると、その部屋には布団が敷かれており、書類袋は布団の上にある。
「ええーっ!」またしても心の中で叫ぶ。
ここで万一の事があったら、私と同じ位の身長のこのお爺さんを倒せるだろうか?
瞬時に考え、瞬時に結論を出した。
「きっと、倒せる!」
ドキドキしながら、物凄い勢いで布団の上の書類を取って、早足に玄関へ向かった。
チラリと視界に入った風呂場の浴槽にはなみなみと水が張られていた。
幸いな事に、何事も起こらなかった。
一応お礼を言い、預金証書は後日お届けしますと伝えて、その場を辞した。
この一連の出来事をどの様に解釈すべきか。
ポジティブに解釈するならば、当初、彼は二人で訪問すると思っていた。
うなぎとお風呂で私達をねぎらってくれようとしたのだろう。
私達が勤務中であり僅かな時間しかないという事は、お年寄りなのでこちら側の事情を配慮する事が出来なかったとも考えられる。
布団が敷いてあった部屋については、彼の万年床であったと言う事にして。
書類袋をひったくって投げた件については、“ゆっくりもてなそう”と彼なりに計画していた事が、思い通りに行かなかった事への子供っぽい怒りの態度であったのではないだろうか。
もし、ネガティブに解釈するなら、言わずもがな。そうは思いたくも無い。
その後、預金証書は自分が届けた記憶が無いので、得意先の人が届けてくれたのだと思う。
この一件から、会社側の配慮だと思うが、女性職員による戸別訪問の預金勧誘は無くなった。
後日、かのお年寄りが来店する事が幾度かあった。
私はどんな顔をして対応したら良いか分からなかった。来店のたびに、同僚に事情を話して離席した。
彼に失礼の無いよう、店舗の透明な扉越しに彼の姿を認めるやいなや、気付かれないように備品庫の中に身を隠した。
お年寄りの真意は分からない。
けれども、ポジティブな解釈が正しかったのだと思いたい。