生子のがん退治

47歳。昨年乳がん左乳房全摘手術と胆嚢全摘手術を連続でやっちまったの。がんなんかにゃ負けねえぞっ!!

入院

2005-02-06 18:40:43 | Weblog
入院日と、全摘手術のスケジュールが決まりましたが、入院まで結構時間が空いています。早く手術して直してもらいたいという気持ちと、なんでこんな小さな「できもの」のために左乳房を全摘しなくてはならないのか?という気持ちが錯綜し、悩みました。

旦那も私が死ぬものだと思い込んで、私のいないところで「俺が悪かったんだ。あいつを助けてくれ」って毎日のように泣いていたそうです。

入院前に旦那と一緒に映画「ゼブラーマン」を見に行きましたが、面白いはずの映画なのに、ちっとも内容が頭に入らなかった。

その頃、家の近くの大手スーパーにパート勤めが決まっていて、毎日、そのための研修をしていました。でも、すぐに研修のチーフに打ち明けることができずにしばらく研修に通いました。毎日が凄く惨めでした。研修に通う時も涙が湧き出てきます。

でも勤めることができないので、入院が近くなってきた日に打ち明けました。するとチーフは「依願退職にしようね」と優しく言ってくれました。でも「依願が胃がん」に聞こえたようで、すぐに訂正されました。私は久しぶりに笑いました。

入院前日、旦那が「切る前に写真を撮ろう」と言いました。私は嫌でしたが、乳房があるときの写真も残しておきたかったので、考えた末に了解しました。旦那は旦那で、私のためにと考えてくれた末のことでした。写真を撮られながら私は泣いてしまいました。旦那も泣いています。

旦那は自分の会社に一ヶ月休みをもらい、といっても旦那の会社は秋葉原にあるので、病院からも通えます。だから実際にはそんなに休んではいません。会社が終わると病院に来て、面会時間ぎりぎりまで病院にいて、千葉まで帰る。翌日は朝一で病院に来る。それから会社に行く。そんな生活でした。旦那を疲れさせてしまったみたいです。

これから入院される方、旦那さんや奥さんを大切に。看病する方が疲れないように調節してあげてくださいね。

乳がん発見!!

2005-02-06 18:38:46 | Weblog
昨年に起こったできごとは、私にとって本当に忘れられないでしょう。

1月、私は船橋の靴屋さんでパート仕事。元旦も仕事でした。

この時期に、左乳房にちくちくとした痛みがありました。すぐに病院に行こうと考えましたが、父が磯鶏ヘルニアで入院したので、父の手術が終わってから、同じ病院で診てもらおうと延期しました。

2月に入って、父の手術も無事終わり、無事退院したので、私は飯田橋にあるその病院の乳腺外科に行き、M先生の診察を受けました。症状を言うと、あれよあれよという間に細胞針検査。エコー。マンモグラフィー検査です。細胞針もマンモも痛かった。辛かったけど、今思えば良かったんです。

検査の結果、乳がんであると言われた日は、2月20日です。

わたしの心に準備もできないうちに、先生は「手術しよう。温存でいくから安心して。で、入院日はいつにしようか?」って言います。

そんなとき、「ひとつの病院だけで診断するのは危険だ」と旦那が言いました。だって、本当にがんでなかったら?不安と望みが半々でした。わたしも旦那も怖くて毎日泣きました。

乳がんの専門で、いい先生が秋葉原のM病院にいると旦那が調べてくれてました。今やセカンドオピニオンは普通です。M先生は快諾してくれて、紹介状まで書いてくれました。2月28日の土曜日、わたしは嫌でしたが、旦那に説得されて、M病院に連絡して診察を受けることになりました。当日は、専門のN先生が休みなので別な外科の先生が診察してくれました。同時にエコー検査も受けました。

飯田橋の病院から細胞針で採取された「私の細胞サンプル」を貸してもらって、M病院でもその細胞サンプルを検査してもらいました。

数日して、M病院のN先生に初めて診察を受けました。

期待に反して、やはり乳がんでした。しかもエコー検査では、さらにもうひとつの腫瘍が見つかりました。「こちらは悪性かどうかは切ってみないとわからないが、乳房は全摘するのが賢明でしょう」と先生は言いました。

飯田橋の病院のM先生にお詫びし、秋葉原のM病院で全摘手術を受けることになるのは、それから一ヵ月後のことでした。

乳腺膿腫

2005-02-06 18:30:15 | Weblog
まず、私が乳がんだとわかる以前のことから始めましょう。

あれは、旦那と結婚してすぐのことです。10年以上も前のことです。左乳房に「違和感」を感じたので、ちょっと迷ったんですが、意を決して、当時住んでいた神奈川県相模原の大きな病院で診察を受けました。よく覚えていませんが、そこで私は「乳腺膿腫」と言われ、乳腺を少し手術で切りました。この時も怖かった。この時は旦那は忙しいのと無関心・・・で、あまり心配してくれませんでした。この時の旦那も今考えると・・・ねえ。

手術(そんなに大げさなものではありませんがね)当日、相模原の病院に行くと、母が一人で千葉から来てくれていました。私は驚きました。だって、母はあまり一人では出歩かないんです。こんなに遠くまでって、ありがたく思いました。少し前に母に知らせた時には「来る」って言わなかったので、私一人では心配だったんです。嬉しかった。

病名を告げられて「乳がん」じゃなかったって母は喜んでくれました。私もほっとしましたよ。でもね、本当は、この時から乳がんは根付いていたんです。だって、私のがんは「10年モノ(実はそれ以上経過している)」って、飯田橋の医師も秋葉原の医師も言いましたからね。あの時の「違和感」は実は乳がんだったんじゃないかと?思うんです。今となっては、相模原の病院を恨むわけじゃないですが、ちょっとね・・・。「がんじゃなくてよかった」って言った、あの時の嬉しそうな母の顔が今でも忘れられません。ごめんね、お母さん。

母は、それから9年後、自分が乳がんになって、さらにがんは肺に転移して死んでしまいます。母が乳がん告知された時に私がしっかりしていれば・・・「インチキな気」や漢方薬で母をだました「東中野の漢方医」から救えたのに・・・死なさずに済んだのに・・・と、今でも後悔して泣いちゃいます。

旦那は「気や漢方だけで治るわけがない」って、母や父や妹を説得してくれたんですが、母は前にも書いたように放射線や抗がん剤が嫌だって言うことをきいてくれなかった。「ちゃんとした医者に見せた方がいい」という旦那に「西洋医学は嘘だ」と言って相手にしてくれなかったんです。でも、母がああ言ったのも無理はないです。私も放射線や抗がん剤って聞いただけで怖い。

実は旦那の従兄妹も母が亡くなる2年前に「血液のがん」である白血病で亡くなっています。この従兄妹の父親が「東中野の漢方医」にかぶれて従兄妹を診てもらおうと、診察の順番を待っていたんですが、当時、この漢方医はなかなかの人気で、旦那の従兄妹は診察される前に亡くなってしまったのでした。

母が亡くなる前日の深夜に、母は「東中野の先生に電話して」って苦しそうに言います。母は呼吸困難で酸素吸入器を付けているのですが、それでも息苦しいらしくて、携帯電話で東中野の先生に電話して楽にして欲しいと言うのです。電話をすると、夜中なので、なかなか先生は出てきませんでしたが、やっと出てくるなり「電話の向こうから気を送る」って言ったんです。

母は気を送っているはずの、その携帯電話を持って祈るようにしていましたが、効き目がなかったのか、とうとう「もういい」と言って電話を私に渡します。「東中野の漢方医」につながっているのかどうかも知りたくもありませんでした。私の妹が電話が切れているのを確認して電話を置きました。母は変わらず苦しんでいます。

母が死んだのは翌日の朝でした。

だから私はこの「東中野の漢方医」が憎い。本当に憎くてたまらない。でも、今に必ず罰が当たるでしょう。運命というのはそういうものです

はじめまして。

2005-02-06 14:40:42 | Weblog
これから私が経験した「乳がん治療」について書いていきますので、よろしくお願いしますね。