「利休にたずねよ」山本兼一著を 読了。 電子書籍の第2弾として 選んだ かなりワサビの効いた「侘び」の本。
電子版で読んでも 侘び は 侘び であったことが 少しうれしい。(今のところは・・・)
当たり前なんだけど、 読んでいて 一言も カタカナ言葉、英語、現代語が 使われていなくて
しかも それで、というか それ故にこそ、というべきか 「侘び寂び」の世界が深まってゆく(様な気がしてくる)ことが 実に不思議なのだ。
ボクの中に それを享受する感性など 極微なはずなのに・・・あたかも 自分と利休の感性が 共鳴しているような 楽しい「錯覚」の世界に遊ぶ。
小説なかばあたりを 読んでいる時 この「秀吉と利休」の二人の存在というのが なんとドラマチックなのか!・・・と感嘆し、なおかつ
全然読んだことないにもかかわらず、 シェークスピアの物語に 勝るとも劣らない・・・のでは、などと妄想をたくましくして この二人の運命を想う。
利休に関しては 三國連太郎の利休、三船敏郎の利休の映画を見て 心に残るものがそれぞれ あった。しかし、それ以来 今日まで利休のことは
忘れていたけれど ここに来て ボクの心のなかで 「千利休」の存在は 大きい。
16世紀なかばの 一人の日本人 しかし、彼の生き様は 時代を超えている。 秀吉は歴史には残ったが 利休は時代を超えている。
そこにこの二人の 生き様の違いが あるのではないだろうか?
ただ、ボクのイメージする利休は この著者の 山本兼一さんの ものとは また違う感じだ。
夕暮れの 碧きレマンは 寂として 白鳥いざなう 侘びの栖(すみか)よ :一撮
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