秋もすっかり深まり、『侘び寂び』の言葉がネット上に散見する季節となった。
いろんな人が、いろんな見解を述べていて楽しく、またこんな言葉を評価する日本民族というものも実に面白い。
『侘び寂び』・・・解らないなりに、渋くてカッコいい感を醸す言葉である事、ただそれだけの認識と尊重があれば良しとするような…
これまで私も何回かそれらしい見解を述べたような・・・ 2021年2月27日のブログ記事〜『侘び寂び』考
たぶん『侘び寂び』の語というものは、遠い祖先が我々に残したすぐれた『公案(禅問答)』ではなかったか・・・。
猫も杓子も、ああだこうだと秋の夜長を談義し楽しみながら、心の深化を図る日本人ならではの『言葉遊び』だろうか。
私もいま一度、馬骨なりの見解を探ってみようと思う。
この言葉、詳細はネット検索にゆずるとして、茶人の間から生まれ千利休あたりで評価が確固としたものであろうか・・・。
茶道が禅との関わりの中で発展したという事を許容した上での話であるが、
『侘び寂び』の精神とは、仏陀生誕の際に叫んだと言われる『天上天下唯我独尊』の『唯我』の見解の妙から発祥している・・・
というのが当『東洋自分なり研究所』所長、馬骨の見解である。
『侘び寂び』と『天上天下唯我独尊』・・・、ここに何の関わりがあるのか?と思われるであろう。
禅の人、鈴木大拙が編み出した『即非の論理』があり、『AはAではない、ゆえにAである』・・・という見解がある。
娑婆ではかなりヤバイものの見方で、『AはAではない』と断ずるところが一般常識に反し、『侘しい、寂しい』状態として形容し蔑(さげす)んだ。
ところが、『ゆえにAである』と解明した当事者から観ると、『侘しい、寂しい』は『侘び寂び』と、真実に寄り添った誇らしい言葉として生まれ変わった。
『唯我独尊』の『唯我』は『我は我ではない=無我』ゆえに『我』である・・・事に目覚めた喜びの宣言『天上天下唯我独尊』に他ならない。