拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 一畳詩人

2014年12月24日 | 禅修行の思い出
  今日はクリスマス・イブだけれど、ボクは仏教について考えたい。
  
  それも『禅』について。 
  仏教といってもいろいろな宗派があるなかで、禅は魅力的ではあるけれど、どこか難しく近寄りがたいイメージがあって、実際に『禅』つまり坐禅を組む
  ところまで行く人は実に少ないと思う。
  しかしながら、あらゆる理屈を取り除いて、座に集中させる『禅』は仏教入門としては最も簡単明瞭な修行法ではないだろうか。

  ボクは初め小さなお寺で仲間数人と月一回の坐禅会に一年間ほど参加。次に円覚寺居士林にて土日坐禅会に参加して2,3年通った。
  坐禅はこれでもう充分だろうと思って、長年夢であった海外へでてみると、西欧では禅ブームの最盛期の後半ぐらいの時期であって
  なんでもかんでも『Zen』の名前が付けられ、猫も杓子も・・・という感じであった。そんな中、禅の何たるかを知ったかぶりした人々が
  西洋人にチヤホヤされている風景を見るにつけ、ボク自身こそどれほど『禅』について知っているのか?と反省し、急遽帰国して
  円覚寺の老師に弟子入りした。といっても坊さんになったわけではなく、居士として毎月ある一週間の僧堂の接心と呼ばれる坐禅会に5年ほど通った。

  それ以前に参加していた居士林の修行は何だったのか?と思えるほど僧堂での修行では、まずもってボクという自我を徹底的に奪い取ることから始まった。
  禅は一見、『禅問答』といってとても理屈っぽいような印象を持つが、実際は問答でも何でもない真逆の行為で『俺が、私が』という自我の殻をひっぺがす
  作業と言える。
  ボクの貰った公案は『庭前の白樹子』といって、達磨さん(禅の創始者)が西(インド)から来た意味は?の答えがこの『庭にある白樹です』・・・という答えで
  取り付く島がない。取り付く島がないと言えば 『父母未生以前』風景を言ってみろ!・・・という公案がいいね。両親が生まれる以前のお前はどこで何を
  していたのか?という問題ですが・・・。 貴方はどう答えます?

  ボクは禅ブームの火付け役『鈴木大拙』を尊敬していますが、何故かと言うと僕らに公案の存在を世に示したからです。
  私達は解かろうが解るまいが『公案』を持つべきであると思います。大いなる『疑問』を持つべきだと思います。

  ボクは初めてヨーロッパに来た時、スペインのどこの教会であったか、とてもリアリスティックな十字架上の血だらけのイエスを観た時
  あっこれは『公案だ!』とハッキリ思いました。じつに『不立文字』でした。何百ページの聖書なんてこの十字架のイエスを見ればいらないのです。

  ボクは鈴木大拙さんの本を読んで、禅道場入門に背中を押されたようなものです。
  しっかりこびりついた自我というのはなかなか自分一人で取り除くことは出来るものではありません。
  禅道場はそれを取り除くための工夫の行き届いたところで、今になってとても感心しています。

  道場の畳(たたみ)一畳が各自に与えられたスペース、坐・食・寝をこの畳一畳で修行期をすごします。
  ここで、自我を殺すんですよね。死人になったらお祝いするんです。


                        一畳で 死人となって 詠う句は 『天上天下 唯我独尊』 : 一撮