伊達市の広報を見ていたら、相馬修先生の記事が載っていました。
亡くなった父と一緒に 梁川で音楽活動をしていた先生です。万年少年の父とは違って、相馬先生は大人で落ち着いていて、父と同じ歳なのにお兄さんのような感じでした。
その相馬先生が、音楽活動で一番印象に残っているのが「ももの里コンサート」だと答えていました。
東日本大震災と原発事故の直後の8月、ふるさと会館で開催されたコンサートです。
実は私の父が最後に指揮をしたコンサートでもあります。
当時、父は末期の癌で入院中でしたが、指揮をしたい、と熱望していて、医者も「行けるなら、止めません」と、言うので、当日、病院から外出許可をもらって、指揮をしに出掛けたのでした。
とは言え、もう、自分で食事も摂れず、起き上がることも困難な状態でしたから、父を会場まで連れて行くのは、一大プロジェクトでした。
まず、腹水が溜まって膨らんだお腹に入る衣装を調達し、パンパンにむくんだ足に入る28.5センチの靴を借りて、当日は、横になったまま看護婦さんに髭を剃ってもらい、ステージ衣装に着替えてから車椅子に載せて、駐車場まで運び、会場の裏口から搬入して、本番10分前に舞台の袖に到着しました。
出番が来て、父は、最後の力を振り絞るように、自分で車イスから立ち上がり、フラフラと舞台の方へ歩きはじめました。会場で手配していた看護婦さんが、手を出して支えようとしたので…
私が「手を出さないで」 と、言おうとしたら、先に ステージの横にいた相馬先生が 看護婦さんを止めました。
看護婦さんが、何か言い返したようでしたが、相馬先生は
「大丈夫なんです。彼は、やれるんです。」
と、きっぱり言いました。
相馬先生が言った通り、父は自分の足で舞台の中央まで歩き、タクトを握った右手を すっと上げて、普段と変わらない 指揮をしました。客席で観ていたお客さんは、誰も、父がさっきまで寝たきりだった なんて 気付かなかったと思います。
本当に父は いい 仲間に恵まれていました。 自分でも「人に 恵まれて 幸せだった」 と言っていました。
ももの里コンサートの10日後、父は息を引き取りました。
明日は 父の 命日です。
亡くなった父と一緒に 梁川で音楽活動をしていた先生です。万年少年の父とは違って、相馬先生は大人で落ち着いていて、父と同じ歳なのにお兄さんのような感じでした。
その相馬先生が、音楽活動で一番印象に残っているのが「ももの里コンサート」だと答えていました。
東日本大震災と原発事故の直後の8月、ふるさと会館で開催されたコンサートです。
実は私の父が最後に指揮をしたコンサートでもあります。
当時、父は末期の癌で入院中でしたが、指揮をしたい、と熱望していて、医者も「行けるなら、止めません」と、言うので、当日、病院から外出許可をもらって、指揮をしに出掛けたのでした。
とは言え、もう、自分で食事も摂れず、起き上がることも困難な状態でしたから、父を会場まで連れて行くのは、一大プロジェクトでした。
まず、腹水が溜まって膨らんだお腹に入る衣装を調達し、パンパンにむくんだ足に入る28.5センチの靴を借りて、当日は、横になったまま看護婦さんに髭を剃ってもらい、ステージ衣装に着替えてから車椅子に載せて、駐車場まで運び、会場の裏口から搬入して、本番10分前に舞台の袖に到着しました。
出番が来て、父は、最後の力を振り絞るように、自分で車イスから立ち上がり、フラフラと舞台の方へ歩きはじめました。会場で手配していた看護婦さんが、手を出して支えようとしたので…
私が「手を出さないで」 と、言おうとしたら、先に ステージの横にいた相馬先生が 看護婦さんを止めました。
看護婦さんが、何か言い返したようでしたが、相馬先生は
「大丈夫なんです。彼は、やれるんです。」
と、きっぱり言いました。
相馬先生が言った通り、父は自分の足で舞台の中央まで歩き、タクトを握った右手を すっと上げて、普段と変わらない 指揮をしました。客席で観ていたお客さんは、誰も、父がさっきまで寝たきりだった なんて 気付かなかったと思います。
本当に父は いい 仲間に恵まれていました。 自分でも「人に 恵まれて 幸せだった」 と言っていました。
ももの里コンサートの10日後、父は息を引き取りました。
明日は 父の 命日です。