それでは、昭和4年~6年の稗貫郡等の米の実収高を見てみよう。それは下図表のようになる。
たしかに、
昭和6年の岩手県の米実収高=1.66石/反
だからかなり作柄が悪い。そこで今までの私は、当然、稗貫もまた同様であったであろうとすっかり思い込んでいた。
ちなみに、以前『岩手県農業史』(岩手県、森嘉兵監修)の841pに、
となるので、たしかに昭和6年は花巻でも冷夏・多雨の傾向が顕著だから、それを少しも疑わずにいた。
ところがこの「米実収高」の図表から明らかなように、それは全くの勘違いであった。なんと、
昭和6年の稗貫の米の実収高=1.82石/反
で、もっと精確には1.823石/反であり、「T14~S9平均」(大正14年~昭和9年の間の岩手県の平均米実収高)1.827反/石と比べて、
1.823/1.827=0.998≒1.00
だから、大雑把に言えば平年作と言えそうなので、
ついつい、〔雨ニモマケズ〕が手帳に書かれたのが昭和6年の11月3日だということだから、その中の一節
サムサノナツハオロオロアルキ
にひきづられて私は、賢治は病の床に臥しながら近隣の農家の冷害による不作を憂い、今病に伏している自分にはそれができない身だが、せめてそうありたいとねがってこの手帳にこの一節も書いたに違いないとばっかり思っていたが、少なくともそのようなことを憂える必要性は賢治にはどうやらなかったと言える。近隣の稗貫の農家は、紫波や和賀の農家とは違って、幸い平年作だったから皆ひとまず安堵していたはずだからだ。
一般的にもそうであるように、賢治の書いたものをそのまま「現実」には還元できないのだということを常々心掛けているつもりでも、裏付けも取らず、検証もせぬままに、「昭和6年の花巻は冷害だった」が「現実」であったと知らず知らずのうちに勘違いしていた。言い方を換えれば、賢治のこの「サムサノナツハオロオロアルキ」という記述は、もしかするとこの昭和6年の岩手県の「冷夏」「冷害」に対して述べているわけではなく、単なる賢治の一般論、観念論であった可能性もあった、ということにもなりそうだ。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。
『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 『羅須地人協会の終焉-その真実-』
『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) 『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』
たしかに、
昭和6年の岩手県の米実収高=1.66石/反
だからかなり作柄が悪い。そこで今までの私は、当然、稗貫もまた同様であったであろうとすっかり思い込んでいた。
ちなみに、以前『岩手県農業史』(岩手県、森嘉兵監修)の841pに、
昭和6年 災害現象
早春雪が異常に多く4月以降気候不順で冷夏、多雨が続き凶作となる。米収穫高98万9,000石で平年より8%の減収となる。
とあり、しかも、『岩手県気象年報 昭和4年、5年、6年』(盛岡測候所編)中の『花巻観測所』のデータによれば、 早春雪が異常に多く4月以降気候不順で冷夏、多雨が続き凶作となる。米収穫高98万9,000石で平年より8%の減収となる。
となるので、たしかに昭和6年は花巻でも冷夏・多雨の傾向が顕著だから、それを少しも疑わずにいた。
ところがこの「米実収高」の図表から明らかなように、それは全くの勘違いであった。なんと、
昭和6年の稗貫の米の実収高=1.82石/反
で、もっと精確には1.823石/反であり、「T14~S9平均」(大正14年~昭和9年の間の岩手県の平均米実収高)1.827反/石と比べて、
1.823/1.827=0.998≒1.00
だから、大雑把に言えば平年作と言えそうなので、
昭和6年の稗貫の稲作は冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均とほぼ同じだから、〝平年作〟と言ってもいいだろう。
ということになるのであった。したがって、岩手県全体のことはさておき、昭和6年の稗貫や花巻の稲作の出来を賢治が心配する必要性はあまりなかったということになる。ついつい、〔雨ニモマケズ〕が手帳に書かれたのが昭和6年の11月3日だということだから、その中の一節
サムサノナツハオロオロアルキ
にひきづられて私は、賢治は病の床に臥しながら近隣の農家の冷害による不作を憂い、今病に伏している自分にはそれができない身だが、せめてそうありたいとねがってこの手帳にこの一節も書いたに違いないとばっかり思っていたが、少なくともそのようなことを憂える必要性は賢治にはどうやらなかったと言える。近隣の稗貫の農家は、紫波や和賀の農家とは違って、幸い平年作だったから皆ひとまず安堵していたはずだからだ。
一般的にもそうであるように、賢治の書いたものをそのまま「現実」には還元できないのだということを常々心掛けているつもりでも、裏付けも取らず、検証もせぬままに、「昭和6年の花巻は冷害だった」が「現実」であったと知らず知らずのうちに勘違いしていた。言い方を換えれば、賢治のこの「サムサノナツハオロオロアルキ」という記述は、もしかするとこの昭和6年の岩手県の「冷夏」「冷害」に対して述べているわけではなく、単なる賢治の一般論、観念論であった可能性もあった、ということにもなりそうだ。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。
『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 『羅須地人協会の終焉-その真実-』
『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) 『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』
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