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特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

豊四季団地循環2 バスに乗って芽生えた自我の意識

2019年05月21日 20時34分34秒 | 旅行

足立区北鹿浜の小6児童が公園で小4の子供にエアガンを撃つというとんでもない事件が世をざわつかせておりますが、
小6時代のわたくしは学校休みのたんびにいつもバスに乗っていてエアガンどころかエアサスもないリーフサスペンションのバスの激しい軋み音とともに過ごしておりました。
風邪ひいたなどと先生に仮病申告してズル早退し小山経由野田市駅~岩井車庫間のバスを往復し、
豊かに広がる美しい畑地を眺めながら平日真っ昼間のバスには大人しか乗ってないことに妙な感動を覚えたことがあります。
今も昔も小6の行動は説明のつかない不可解なものが多いのです。

ところで学校休みの日曜日にあっちゃこっちゃのバス路線を乗り終えて帰宅してからよく見ていたアニメに「おじゃまんが山田くん」というのがありました。
ジブリ映画の「となりの山田くん」では原作同様大阪市が設定舞台となっておりましたが、
当時のTVアニメ版では東京の東江戸川3丁目という土地になっていました。
登場キャラの一人に東京12チャンネルの娯楽番組なんかでよく見かけたコロムビアトップがCVをしていたおじいちゃんキャラがいて、
孫を連れてバスに乗るという場面がありました。
しかしその所作はその日流山から野田市駅行きの整理券多運賃区間制のバスに乗って帰ってきたわたくしの目にはまことに珍妙なものとして映りました。

ダルマ型のバス停に白っぽい模様のバスが来てバス停に前扉を合わせて停まる、2枚折戸扉が折れ開くとよっこらしょとステップ段を上がってから
「あー、大人ひとり子供ひとり」と言って小銭を箱に投入していく。整理券も取らないし降りるバス停の名前も言わない。
「ふーん、東京のバスはどこまで乗っても同額だから先に払わせるんだ」と思い、ひとつ知恵がついたような気がしました。
当時のわたくしの行動範囲内では一度だけ武里駅から乗ったことのある武里団地循環という路線がこれと同じでした。
予備知識のなかったわたくしは前乗りだけれども後払いだと思って乗って座席に座ろうとしたら運転士のおじさんに
「あぁ~ボク、ボク」と前払いを促されました。
そのあと女の人も乗ってきてやはり後払いだと勘違いしていたようで「おくさぁーん、先に払うんだよ」とたしなめられていました。

一方柏01 豊四季団地循環は後のり前降りの後払いでした。今でも後払いですね。

それまで乗ったことがなくとも遠くから眺めていてわかりました。
バス停のポールはライトブルーの鉄枠に時刻表を挟み入れたガラス板2枚がはめてあるのは野田と同じでしたがはるかに胴回りがスリムで、
頭には赤い縁取りで「①」と記された棒で叩いたらコーンといい音が響きそうなやはり鉄製の円板が付いていました。
胴体に黒い文字で「豊四季団地循環」と縦書きされ、時刻表とともに何らかの商業書体で「大人80円 小人40円」と書かれた
均一運賃であることを知らせる一枚紙が挟まれていました。
時刻表は「高校先回り」と「向原先回り」の2枚が上下にありましたがそこに書かれている数字は
野田と同じでサインペンか細マジックによる手書きでした。

野田では見たことないほど多頻度の本数が無限級数のように書き込まれていましたが、待ち行列を全員吸い込んで一台出ていくと
その後1分としないうちにまるで煮込み中の鍋のアクのようにどこからともなくまた人が湧いてきて小行列ができはじめました。
先頭から5人目くらいに並んだわたくしは「豊四季団地とやらには人が百万人くらいいるんじゃないか」と何だかワクワクしました。

やがてバスがやってきて、カラカラというアイドリング音と酢酸のすっぱそうな臭いのディーゼル排ガスに包まれた後扉から
乗り込むと最前席は左右ともすでに先客に取られてしまっていたので、後扉すぐ前タイヤボックス上の一人掛け席へ座りました。
この席は後方ながら他席より一段高く、運賃表示器の挙動や車窓を通して見えるバス停に書かれているいろんな情報が非常によく見えるのです。
子供の頃のわたくしは視力2.0近くを有しておりました。
さて、さっそくその運賃表示器を見てみると興味深いことに停留所欄には「① 豊四季団地循環」と停留所名ではなく
路線名そのものが書いてあって、運賃欄は「な し」のところに「80」とあるだけで他に数字はなく、
そのかわり隣の列に「均一運賃」と書いてありました。このことは先述の武里団地循環でも同様でした。
均一運賃循環路線の運賃表示器を見たのはこれが初めてだったので、もしかすると経路上に「豊四季団地循環」という名前のバス停があって
それを越えると「② ナントカ」と変わるのかなとも思いました。
運賃区間はただ一つしかありませんから結局終点まで一度もその幕は動きませんでした。
柏市中最長距離を誇った柏03に慣れ親しんだわたくしは、運賃表示器のフィルム幕が道中幾度もジーコジーコ動くのが
乗りバスの醍醐味と捉えておりましたから、車中においては「なるほどこうしてんだ」と唸りましたが降車してから
「しかしこれは実に風情のないことだ」と嘆息いたしました。

 

均一運賃ならば運賃表示器そのものが不要と思われるかもしれません。
なるほどこの『写真で見る東武鉄道80年』(東武鉄道株式会社編)に掲載されている画像では運賃表示器がないように見えます。
しかしながら柏営業所の他路線は同じ循環の松ケ崎循環とか東口の緑ヶ丘循環でも整理券がぴょこぴょこ出てくる多区間制でしたから
運賃表示器がなければ車両の融通が利かなくなってしまいます。

この路線はバス沼から足を洗うまでの間に初回も含めて2度乗ったと記憶しています。
乗りたくて乗ったのは初回だけでもう一回は野田に帰るバスまで時間があった時の時間つぶしのために乗りました。
道中のバス停は当時から現在まで全く変わっておりませんで、強いて言えば現在柏中学校入口、柏中学校前といっているバス停名に
当時は「柏」がついてなかった、ということでしょうか。
しかしながらそれら途中停留所の一つに極めて際立った思い出があります。

この団地センター前は昔もこの名前でしたが、後ろにそそり立つPEACOCK STOREは当時「松坂屋ストア」という看板を掲げていました。


看板は当時の感覚でも古風なものに見え高島屋よりもやや暗い紅の色味の井桁のようなマークが付いていました。
スーパーのすぐそばには肉屋やら八百屋やらたいそう商店が並んでいて商業繁華な土地のように見えました。
商店街の前には地面に白チョークで丸をかいてケンケンパッと遊んでいる幼女の群れがありました。
瓶ジュースを片手に「ゴ~ドマーズ、強い力で~♪」と当時流行りのアニソンを歌っている男児の群れがありました。
子供を見守る大人の中にはひっつめ髪で麻の買い物袋をもって割烹着を着ているサザエさんのフネさんのようないでたちの主婦がいました。
水を張ったどでかい木箱を荷台に乗せてプーピーとラッパを吹いてる自転車の豆腐屋さんがいました。
画一的な団地しか見えなかった退屈な車窓の眺めに美しい昭和が現れました。

しかしわたくしはその光景を見ながらある考えをいたしました。


「バスは楽しい。大人の半額で大人が運転する巨大な車に乗ることほど楽しいことはない。
テープを回すスイッチ盤や運賃表示器など普通の車に乗っていては目の当たりにできないものがあるというのに、
そしてこれほどの本数のバスが目の前を行き来しているというのになにゆえこの子供たちはバスに乗ろうとしないのだろうか?」
そしてそのとき「普通の子供はバスに興味を示さないのだ。自分は他の子供とは違う性癖、嗜好を持った子供なのだ」と自分の特殊性に気づきました。
さらに母に黙って母方の祖母からバス賃に充当すべく多額の小遣いをもらっていたという後ろめたさもあいまって
「この性癖・嗜好が他人にばれると自分は精神障害児として扱われるであろう、普通の人間ではないと大人に判断され自分は他の子供より不利な扱いを受けるであろう、
バスに乗って知り得たことは他人に口外したり吹聴してはならないのだ」と自分を戒めるようになりました。


それよりも前からバスに乗っては沿道で戯れる子供の姿を何度も目撃しておりましたから、
本当はそれ以前からこのような意識を持っていたのかもしれませんし、このように言葉にし得るほど明瞭となったのはこの時より後のことだったかも知れません。


しかし教室で他の子や先生と会話していて「岩井のまつりにバスで行ってきた」とか「バスに高島屋って書いてあるのとないのがあるのはなんでかな」
などというバス絡みの話に及ぶと、ついつい余計な能書き話をしたくなるのですがあの松坂屋ストアの子供たちの姿が脳裏に浮かび
「あれが世間が子供に求めるあるべき姿だ、今ここでバス路線についてのマニアックな知識をひけらかすと自分の異常性が白日の下に晒されるのだ」
と口をつぐむようになりました。

わたくしはバスに乗るたびに帰宅してから大学ノートにその日みた野田出張所の路線図や行路表を書写したり、
滅多に見ることのできなかった「野11 関宿工業団地入口」という方向幕を真似て書いたり、コンパスで円を描いて橙の色鉛筆でべた塗して
ハサミで切り取り青色のサインペンで円周を縁取って上下端から等距離に横線を引くと「水 せ き 橋/柏駅西口 北柏駅入口 ゆき/東武バス」と
書いてさらに縦長方形の時刻表と「ワンマンバスご利用のお願い」という白い案内板もどきも拵えて
セロハンテープで自室の壁の高い所から低い所へ順々に貼り付け「やった、バス停ができた!」と一人悦に入るような異常児でした。
しかしそのノートは中学生のエロ本よろしく決して誰にも見せず分厚い百科事典の間に挟んで秘匿し、
バス停もどきはひとしきり満足すると手で引きちぎって個室のごみ箱だとバレそうなので台所の生ごみのつまったゴミ箱へ破棄していました。

平成13年野田出張所が廃止されるよりやや前、少年時代の奇行愚行の全てを母に暴露すると「そんなことしてたの!」と驚かれましたがそれで終わりでした。
祖母にも白状しますと「はぁ?馬鹿じゃねえのか?」と叱られずに呆れられましたが、小山の渡し船のバスに乗った話、
徴用されて水堰橋にバスで行った話、野田醤油工場のそばに「研究所前」というバス停があって工員がわんさか乗ってきたので
野田橋の手前の坂が上れず客が降りてバスを押して橋を渡った話、いろいろ聞くことができました。

異常な小学生が長じてなんとか一般人になろうと柏の高校生になった頃でも柏駅にはオレンジ色した現行色は10台に1、2台程度しか
見受けられずこれが東武バスとはにわかに信じられないものがありました。

 


時は流れ、青ラインの東武バスを知らない年少の人々の方が多い時代となりました。
しかしバスにかまけた体験をおおっぴらに他人様に話せ、人と異なる嗜好を持ったことを恥ずかしく思う必要がなくなった
オープンな社会を作ってくれた年少の人々に対しては、今に至って感謝の念を抱かざるを得ないのです。



3 コメント

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Unknown (yagichan)
2019-11-24 15:08:49
私は50年前、当時豊四季台在住で幼稚園児でした。
柏駅西口(現在は南口)近くの幼稚園児で園児バスは無く園児達は徒歩や鉄道、バスの公共機関を利用していました。
行きは保護者が一人ついて同行、帰りは先生が一人同行し最寄り
のバス停で園児を降ろすといったところで、園児は定期券で通園していました。
記憶にあるのはすでに豊四季団地循環はワンマン運転で、前乗り後降りで料金表示機は無く、料金箱も手動した。
他、路線はツーマン…
家族で大利根温泉へマイカーでなく野田市駅行きツーマンバスで行った記憶も懐かしい限りです。
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Unknown (surrender90)
2019-11-25 21:12:25
yagichan様ありがとございます。「前乗り後降りで料金表示機は無く、料金箱も手動」とは初めて知りました。もう私の時代には全く見ることができなかった光景で貴重なお話しありがとうございます。
返信する
Unknown (yagichan)
2019-11-29 18:03:27
こちらこそ…貴殿ブログにふと留まり懐かしく投稿した次第。
車種等詳しくはないのですが、当時は前扉中扉の車種は、
豊四季台団地循環と後に東口からの市内循環(緑ヶ丘市内循環、後配線)だけの記憶です。
均一料金なので料金掲示機は不要だったのでしょう。
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